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2020.8.10

君は演劇の俳優である

奴隷の哲学者、エピクテトスの心に響く言葉より…

《記憶しておくがよい。君は演劇の俳優である》(エピクテトス)

記憶しておくがよい。

君は演劇の俳優である。

劇作家が望んでいる通りに、短編であれば短く、長編であれば長い劇を演じる俳優だ。

作家が君に物乞いの役を演じてもらいたければ、そんな端役でさえも君はごく自然に演じるように。

足が悪い人でも、殿様でも、庶民でも同じこと。

君の仕事は、与えられた役を立派に演じることだ。

その役を誰に割り振るかは、また別の人の仕事である。

ギリシャ・ローマの古典劇では、円形の平土間に12〜15人からなる歌舞隊が登場し、二手に分かれて交互に歌を歌い、踊り、その合間に仮面をつけて高下駄を履いた3人の俳優が舞台上で正面の客席を向いて台詞(せりふ)を交わす。

合唱が入るから、演劇といってもオペラやミュージカルに近い。

俳優は同時に3人までしか登場しない決まりだったから、登場人物が多い劇の場合、1人の俳優が場面ごとに仮面を付け替えては登場し、別々の人物を演じることが普通だった。

改めて考えてみると、実人生でも、我々は「自立した一つの人格」という以前に、むしろその場と状況に応じ、いくつか複数の役を演じているのかもしれない。

会社や学校に行けば、その組織の中で自分の役割に応じた仕事をする。

家に帰れば親として、夫として妻として、あるいは息子・娘として振る舞う。

休日には趣味の仲間と一緒になって、普段とは違った顔を見せる。

服装だってその場に応じて取り替える。

学校の制服だったり、背広にネクタイだったり、カジュアルだったり盛装したり。

つまり意識すると否とにかかわらず、何を着るかに応じて自分の役割を周囲に発信している。

それは舞台の衣装と大差はないだろう。

エピクテトスは、ずばり「君は演劇の俳優である」と言う。

しかし、「誰もが主役」というわけにはいかない。

自分に与えられた役回りが、たとえ端役や悪役であったとしても喜んで受け入れ、監督や演出家の創作意図を正しく理解し、そのつどその役に相応(ふさわ)しく見事に演じ切ることが大切だ、と彼は伝えている。

他人を押しのけてでも自分から主役を願い出ることも、割り振られた役に不満を持つことも、正しくない。

自分の置かれた状況をよくわきまえたうえで、自分に振られた役は何なのか、何を自分は望まれているのかを見抜くことが求められる。
エピクテトス自身、足を悪くしていたが、彼にとっては自分の肢体不自由すら、演じるべき役柄として理解していた。

それは消極的な態度とも、驚くべき前向きな態度とも取れる。

我々は、なりたいものになれるわけではない。

生まれた場所、遺伝も含めた親からの影響、育った環境や文化など、様々な条件がかけあわされて今の自分がある。

舞台背景を無視して身勝手に演技する役者がいれば、大根役者のそしりを免れないだろう。

同様に、自分の境遇を無視して生きようとすれば、そこには必ず無理や歪(ひず)みが生じる。

むろん、役者として一挙手一投足すべての動きが台本に記されているわけではない。

とりわけ、心の働きだけは何にも束縛されることはない。

人生=舞台という一定の制約の中で、自分の手で変えることのできるものは何か、またその反対に受け入れなければならないものは何か。

その境界を正しく見極めることが、本当の意味で自分らしく生き抜くということなのだろう。

『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 ――この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』(荻野弘之)ダイヤモンド社


エピクテトスは、ローマ時代のストア派を代表する哲学者である。

彼が生きた時代は、紀元1世紀の後半から2世紀の前半にかけて、ネロ帝からハドリアヌス帝に至る帝政初期、ローマ帝国が最大の版図(はんと)に達し、繁栄を誇った時代に当たる。

ストア派の出発点はそれより400年前、開祖ゼノンとその門弟がアテネ市内の中心部にある彩色柱廊(ちゅうろう)(ストア・ポイキレー)を舞台にして教授活動をしたことから、この名で呼ばれるようになった。

自前のキャンパスや校舎をもたない、今でいえば「哲学カフェ」といったところだろう。

同時代のストア哲学といえば、キケロ、セネカ、マルクス・アウレリウスといった名前が浮かんでくるが、こうした系譜の中核にいるのが、エピクテトスという奴隷出身の哲学者なのである。

彼は、奴隷の両親から生まれた苦労人で、彼自身も若い頃は奴隷として過ごし、解放された後は私塾を開いて生計を立てた。

エピクテトスの一生は、いわゆる「学者」でも、ましてや「エリート」でもない。

奴隷としての出自、慢性的な肢体不自由、国外追放の辛酸(しんさん)、塾講師としての不安定な収入、といった多くの困難を抱えながら、当時の流行思想でもあったストア派の哲学を自分自身の「生き方」として学び取り、それを洗練させていった。

地位や財産や権力とは無縁な、ごく平凡な市井(しせい)の庶民が、いかにして真の自由を享受し、幸福な生活にあずかることができるのか。

そのためにいかなる知恵が大切なのか…。

「隷属と自由」という彼自身の課題は、そのまま現代人の生活の場面にまでつながっている。(以上、本書より)

エピクテトスは、年収や財産を自慢するなんて、勘違いも甚だしいという。

得意になって自分の所有しているものを自慢したとしたところで、そのモノがその人の価値を決めるわけではない。

大事なのは「心の働き」だという。

常に徳性を磨いているか、偏見にとらわれていないか、偉そうにしていないか、自分の欲をコントロールできているかという「心の働き」だ。

自分の与えられた役割をしっかりと認識し、生涯にわたり、しっかりと演じ切りたい。



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