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2019.8.2

真の友とは

小林正観さんの心に響く言葉より…

お釈迦さまが最後の旅に出たとき、同行していたのはアーナンダという古い弟子でした。

アーナンダは「お釈迦さまの十大弟子」の一人ですが、十大弟子の中では最も遅く悟った人とされ、「多門(たもん)第一」尊者(そんじゃ)と呼ばれました。

「多門」というのは、「お釈迦さまの教えを最も多く聞いた」という意味。

ほかの9人がそれぞれの「悟り」の結果としてたたえられているのに対して、アーナンダは「多門」というかたちでしか評価されませんでした。

アーナンダはお釈迦さまの従兄弟(いとこ)にあたり、お釈迦さまとは30歳ほどの年齢差(お釈迦さまの方が年上)があったようです。

アーナンダは普通のお釈迦さまの弟子に比べて優しすぎる人だったのだそうです。

そのため他人の悩みに入り込んでしまい、自分も一緒になって悩んでしまうため、悟るのが大変遅くなってしまいました。

お釈迦さまが涅槃(ねはん)に入る直前まで、アーナンダは悩み、煩悩から離れることができず、悟ることができなったと言います。

そんなアーナンダでしたが、お釈迦さまはアーナンダをかわいがり、よく旅(説法の旅)に連れていきました。

そんな旅の途中、アーナンダはこんな質問をするのです。

「お釈迦さま、よき友を得ることは聖なる道の半ばだと思えるのですが、どうなのでしょうか」

私の考えですが、「聖なる道」というのは「正しい生き方」というような意味ではなかったかと思います。

そのとき、お釈迦さまはこう答えました。

「アーナンダよ、よき友を得ることは聖なる道の半ばではない」

アーナンダは「やはり自分は未熟で何もわかっていない」と、がっかりしたかもしれません。

が、お釈迦さまの口から続いて出てきた言葉は、アーナンダの予想を超えるものでした。

「アーナンダよ、よき友を得ることは聖なる道の半ばではなく、聖なる道の全てである」

お釈迦さまはこう説明しました。

「私(お釈迦さま)を友とすることによって、人は老いる身でありながら老いを恐れずにすみ、病むこともある身でありながら病むことを恐れずにすむ。

必ず死すべき身でありながら、死の恐れから逃れることができる。

よき友を持つことは、幸せに生きることの絶対条件なのだ」と。

それでは「よき友」というより「師匠になってしまう」との異論が出そうですが、それは本来の「友」という意味が正しく伝わっていないせいでしょう。

本来の「友」とは、遊び相手とか遊び仲間というようなものではなくて、人生上の悩み・苦しみ・苦悩・煩悩を少しでも軽減してくれるような“気づき”を教えてくれる人、のようです。

それは同時に、自分もそういう存在になることが「よき友」と言われる条件ということでもあります。

そのように教え合うこと、学びや気づきを知らせ合うこと、交歓し合うことが「友」というものなのかもしれません。

私たちは「友」という概念を非常に狭い意味でとらえてきました。

「友」というものは、近い年代で、同じような趣味を持ち、同じような音楽を聴き、同じような遊びに関心がある人、と考えてきたように思います。

本質的な「友」という存在を認識するにためには、「幸せ」というものも正しく認識する必要があるかもしれません。

というのは、「幸せ」とは「何かを得る」とか「欲しいと思っていたものを手に入れる」ことではなく、「今の自分が『幸せ』の中にいること、『幸せ』の中に存在していること」を知ることだからです。

欲しいものを得たいとか、今以上の何かを得たいなど、自分の外に求めるものがあり、それが求められた、得られた、ということで「幸せ」を感じるならば、人生は実に苦悩に満ちたものでしかないでしょう。

思いどおりに得られるものなど、ほとんどないからです。

「得る」ことや、「手に入れること」を考えている間は、本当の「幸せ」は手に入ることはないように思います。

「得る」ための「友」ではなく、「認識する」ための「友」が真の友、というのがお釈迦さまの言う「友」であるようです。

「こんなことを感じた」「こんなふうに思った」ということを語り合うことで、重荷を下ろし、楽になり、生きることが楽になる、そういう仲間こそが、お釈迦さまが言う本当の「友」ということになるのでしょう。

そう考えれば、「何かを教えてくれる人」「その人の一言、その人の気づきによって自分が楽になり、幸せになれる人」が、本質的な「友」であることがわかります。

年齢が離れていようが、男女であろうが、関係ありません。

では、「友」と「師匠」はどう違うのかという疑問が生じます。

「教えてくれる」のが「友」であるなら、「師匠」とはどう違うのか。

私が思うに、「友」と「師匠」の根源的な違いは、「一方通行」と「相互通行」の差ではないかと思うのです。

互いに、「こんなことがわかった」「こんなことを知った」と教え合い、語り合うのが、多分「友」なのです。

お釈迦さまは、アーナンダからすれば確かに“師匠”でした。

が、お釈迦さまからは、アーナンダの何気ない一言で多くのことを知り、あるいは気づき、悟りに至っていたのかもしれません。

その意味で、アーナンダは、お釈迦さまにとっての“友”だったかもしれないのです。

『生きる大事・死ぬ大事 死を通して見えてくる幸せな生き方』イースト・プレス


安岡正篤師の「照心語録」の中にこんな一節がある。

『歳暮になると忘年会がはやるがこの「忘年」とは本来一年の苦労を忘れるという意味ではない。

年齢を忘れるの意で、漢代の大学者孔融(当時50歳)と禰衡(でいこう)(20歳未満)との交わりを、世人が「忘年の交」とよんだ故事による。

だから、忘年会とは老若席を同じくし年齢を忘れて楽しむのが本当だ。』

当時、禰衡は20歳にもならなかったが、並外れて才能があったという。

年は若いが尊敬するに値する人間だからこそ、この交わりがある。

幸せは得るものではなく、気づくものだ。

幸せはどこか遠くにあるものではない。

今ある日常の中に、幸せがあることに気づくこと。

そして、それを気づかせてくれるのが「真の友」。

明末の幻の名著「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」の中にこんな言葉がある。

「君と一夕話(いっせきわ)、読むに勝(まさ)る十年の書」

一夕話とは、ある晩(ばん)語られた話のこと。

『十年かけて勉強したり、読んだ書より、君と一晩語りつくしたほうがずっといい』。

この人とまた逢いたい、そして一晩語りつくしたい、そう思わせる友や先輩、師が近くにいる人は幸せだ。

その一夕が、珠玉の時間となる。

真の友と一晩語りつくしたい。



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