2020.8.14 |
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自分がやられて嫌なことは人にしてはならない |
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
『論語』は激動する春秋時代末期を生きた孔子と弟子たちの言行録である。
約二千五百年を経たいま、『論語』は色褪(あ)せるどころか輝きを増し、人びとを魅了して止まない。
人間の本質を鋭く衝き、生きるべき道を指し示してくれるからにほかならない。
弟子の一人・子貢(しこう)は聡明で才長け、明朗な性格だった。
『論語』に頻繁 に登場し、三十一歳年長の師・孔子に闊達(かったつ)な質問を投げている。
孔子も そんな子貢を愛し、「賜(し・子貢の名)や達なり」とその人物を高く評価 していた。
弁才豊かな子貢は魯(ろ)や衛(えい)で外交を担い、理財の才もあって晩年の孔子の財政を助けてもいたようである。
孔子が七十四歳で没すると、弟子たちは三年の喪に服した。
だが、子貢は喪が明けてもさらに三年、孔子の墓守を続けた。
子貢の人柄が窺(うかが)えると同時に、孔子への敬愛の深さが偲ばれよう。
その子貢がある時、孔子に質問した。 《子貢問ひて曰く、一言(いちげん)にして以て終身之を行ふ可(べ)き者有りやと。
子曰く、其れ恕(じょ)か。
己の欲せざる所は、人に施すこと勿(な)かれと》
元京都大学総長の故平澤興さんはこの一節がお好きだったようで、著作や講演によく引用されている。
以下、平澤さんの解釈に従う。
子貢は聞いた。
「先生、たった一語で、一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか」
孔子は、 「それは恕かな…其恕也」 と答える。
孔子が「怨なり…其恕也」と断定せず、「恕か」と曖昧(あいまい)に答えたところに、なんとも味わい深い孔子の人柄を感じる、と平澤さんは述べておられる。
自分がされたくないことは人にしてはならない、それが怨だ、と孔子は説いた。
つまりは思いやりということである。
他を受け容れ、認め、許し、その気持ちを思いやる。
自分のことと同じように人のことを考える。
そのことこそ、人生で一番大切なことだと孔子は教えたのである。
天文十八(一五四九)年、キリスト教伝道のために鹿児島に上陸した フランシスコ・ザビエルは、「真に優れた人たちに初めて出会った」と本国のイエズス会に報告書を送った。
明治二十三(一八九〇)年、民族学研究のため来日、松江中学の英語教師になったラフカディオ・ハーンは、朝日を礼拝する庶民の姿に感動し、「こんな素晴らしい民族はない」と日本人小泉八雲になることを決意した。
遥(はる)かな国からやってきた人たちの心を揺さぶった当時の日本人の姿には、根底に温かい「恕」があったからではなかろうか。
「もの盛んなれば心失う」という。
いま、人間の欲望享楽を満たす手段 はかつてないほどに繁栄した。
それに比例するように、自分さえよけれ ばいい、いまさえよければいいという風潮が世に蔓延(まんえん)しつつある。
私たちはいまこそ、かつての日本人が備えていた美質を努めて涵養(かんよう)していかなければならない。
豊かな後世のために…。
『小さな人生論2 (小さな人生論シリーズ)』致知出版社
明治大学教授の齋藤孝氏は、道徳の基本は、「己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」ではないかと言う。
「自分がやられて嫌なことは人にするな」。
これは、自分がされて嫌でなければ、人にやってもいい、という話ではない。
たとえば、タバコを吸う人がいたとして、その人はまわりでタバコを吸われても全然気にならなかったとする。
だから、「タバコを吸わない人の前で、タバコを吸っても構わない」ということにならないのと同じだ。
また、自分がアルコールが好きだから、人にお酒を勧められても全然平気だし、むしろ嬉しくなる、と言う人も同様だ。
自分がお酒が好きだから、だれかれ構わず、「お酒をすすめてもいい」ということにはならない。
「自分はお酒が好きだが、他の人はどうかな」、という恕の心が前提に必要なのは言うまでもない。
それができない人は、ただのひとりよがりの、独善的で、利己的な人だ。
思いやりは想像力だ。
どうしたら相手は喜んでくれるかな、と想像力を働かせる。
どんなことをしたら怒るかな、嫌な気持ちになるのかな、と想像力を働かせる。
自分がやられて嫌なことは人にしてはならない、という言葉を胸に刻みたい。 |
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