2020.7.31 |
|
投げかけたことは返ってくる |
|
小林正観さんの心に響く言葉より…
「人生つまらない。何をやってもつまらない。何をしても楽しくない。楽しいことなんか何一つない。だから死んじゃいたい」と相談に来た人がいました。
私はそこで、「今まで投げかけをしてきましたか」と聞きました。
これは今までに何人か同じような人がいたわけですが、いつも同じ質問をします。
「投げかけをしてきましたか」
その人たちの答えはすべて同じものでした。
えっ、と言うのです。
「投げかけって何ですか」。
それが共通の答えでした。
「投げかけたことはないのですね」
「投げかけなんてわかりません。どういう意味ですか」
そこからすべての話が始まりました。
笑顔を投げかけた人は、倍の笑顔に囲まれます。
不機嫌を投げかけてきた人は、倍の不機嫌に囲まれることになります。
何も投げかけてこなかった人は、何も返ってきません。
やさしさをたくさん投げかけた人は、たくさんのやさしさに囲まれます。
温かいものをたくさんまわりに振りまいてきた人は、温かいものに囲まれることになります。
投げかけたものに自分が囲まれるのです。
ここのところをずっと考えていくと、最終的には自分のためだということに気がつきます。
世の中に喜ばれるように生きる。
まわりの友人たちに喜ばれるように生きる。
笑顔を投げかける。
なるべく不機嫌を投げかけないというように生きていくことが、人格者として理想的な生き方としての話ではなくて、自分自身の損得勘定であるということに気がつきます。
本当に損得がわかった人は、自分の人生を考える、つくり上げる上で、それが一番得だということがわかります。
笑顔を投げかけたほうが得なのです。
自分にとって同じような笑顔に囲まれるのですから。
やさしさを投げかけたほうが得なのです。
やさしさに囲まれるようになるのですから。
温かさを投げかけたほうがいいのです。
温かさに囲まれることになるのですから。
そういうものを理解し実践をしていくと、人生がどんどんラクで楽しいものになります。
そういう意味で自分の人生をつくり上げることができます。
ただ、夢や希望を言って「神様、思うように叶えてください」と言うのは、この生き方と違います。
夢や希望をぶつけるということは、今の生活が気に入らない。
もっと何とかしろ。
もっともっとほしい。
もっと手に入れたいということにほかならないからです。
笑顔を投げかける。
今、幸せであるという言葉や概念を投げかける。
それをまわりの人にたくさん示していく。
その結果として、その人は、まわりに笑顔ややさしさに囲まれることになります。
『啼かなくていいホトトギス』中経出版
小林正観さんは荒っぽい言葉についてこう語る。
『荒っぽい言葉を使っていると、そのとおりの言葉に囲まれることになります。
投げたものが返ってくるので、何年かすると自分に返ってきます。
乱暴な、荒っぽい言葉に囲まれることになります。
「荒れた学校」のことを聞くことがありますが、もしかすると、その学校には、「おい」「おまえ」という言葉が飛び交ってきたのかもしれません。
国際神道学会の会長で、中央大学の中西旭(あきら)先生は、「神様は上に行けば行くほど、腰が低くなります。
いばったり、偉そうにすることは絶対にありません。
ときには人間に対して、土下座さえもします。
ほんとうにすごい神様は、とても腰が低いのです」
その話を聞いて以来、私は年下の男性に対しても、「さんづけで呼ぼう」と決めました。
「言葉を大事にする」ということの中に、「敬語」というものもあります。
中西先生は「丁寧な言葉」以上に、「美しい言葉」をお使いになるかたでした。
「敬語」の使い方が素敵なのです。
年下の教え子に対し、普通に何事もなく敬語を使って接しておられました。
「敬語をさりげなく使いこなせる人は、かっこいい」のでした。
会話の部分で丁寧な言い方をする。
そういう日々を続けていると、荒っぽい言葉を浴びせられることがなくなります。』(幸も不幸もないんですよ・マキノ出版)より
もし、まわりに荒っぽい言葉が飛び交っているなら、自分が荒っぽい言葉を発している。
運動部系の出身の人が、ただ出身校が一緒なだけなのに、年齢が一つでも下なら、名前を呼び捨てにする人がいる。
社会人になって何年も経っているのに、未だそのクセが改まらない。
まわりでそれを聞いていると、寒々とする。
他人に敬意を表さなければ、自分も敬意を払われることはない。
いつか、ないがしろにされるということだ。
「投げかけたことは返ってくる」という言葉を胸に刻みたい。 |
|
|