2020.7.30 |
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嫌な人に対して「嫌」と言える人に |
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斎藤一人さんの心に響く言葉より…
嫌な人から好かれたら、おかしな人間になってしまう。
だっておまわりさんが泥棒から好かれたら、おかしいでしょう?
嫌な人から好かれると、その人も嫌な人になります。
そうして嫌な人間とつきあっているから嫌な人生になってしまう。
嫌な人はまれにしかいません。
その“まれ”とわざわざつきあうことはありません。
ほとんどの人はふつうか、いい人なんだから、そっちとつきあえばいいんです。
「この人、嫌だなあ〜」
と思ったら、はっきりと顔または声に出して、「NO!」と言っていいんです。
「NOと言ったら、相手の人を傷つけるから」
なんて言う人がいますが、傷ついているのは相手ではありません。
「NO」と言えないあなたです。
だいたい黒いものを黒いと言うだけなのに、なぜそんなに傷つくんでしょう?
我慢しても何もいいことはありません。
「我慢は美徳」などと言いますが、我慢からは「うらみ」しか生まれないんです。
ある人から、
「一人さんはどうして神様からこんなに味方されるんでしょう?」
と聞かれました。
自分でも「どうしてかな」と考えたんですが、それは神様が喜ぶようなことをしているからだと思います。
では神様が喜ぶことって何かな、と思ったとき、いろいろ思いつきましたが、嫌な人に「嫌」ということもその一つだと気づいたんです。
人に「NO!」というのは冷たい人間に思えます。
でも嫌な人に嫌な顔をせずに親切にしても、その人の嫌なところは直りっこない。
嫌な人は嫌な人です。
そういう人は自分で苦労して、嫌なところを直せばいいんです。
逆説的な言い方をすると、嫌な人に「嫌な奴」として接するあなたの気持ちを大切にすることが、相手のためにもなるんですね。
よく「どんな人にもいいところがある」という言い方をします。
それはたしかです。
嫌な人にも探せばいいところがある。
でもそれを探すのはあなたの役目ではありません。
なぜわざわざあなたがそんなことをしてあげなきゃいけないのか(笑)
あなたの周りにはいい人がたくさんいるんですよ。
あなたはその人たちと仲よく、楽しくしていればいいのです。
なぜあなたが犠牲を払ってまで嫌な人のために、嫌な思いをしながら、その人のいいところを探さなきゃいけないんでしょう?
嫌な人間にもある「いいところ」を探すのは、嫌な人自身にまかせておけばいい。
嫌な人は嫌われ、「NO!」と言われて、初めて自分で「これじゃいけない」と悟るんです。
一番いけないのは、嫌な人間から嫌われるのを恐れたり、その人から好かれようとしたりすることです。
その中でも一番最悪なのは、嫌な人間をいい人に変えようとすることです。
知り合いにも、暴力亭主と一緒にいて、相手につくして変えようとしていた女の人がいました。
何度も言いますけど、自分は変えられても、人は変えられません。
その人の場合も「離婚する」と言ったときだけ、亭主は反省して優しくなりますが、すぐ元に戻ってしまう。
私はその女の人にこう言いました。
「相手は直る必要なんかないんだよ。
直す必要があると思ったら自分で変わるよ。
亭主はそのままでいい。
ただあなたとは合わないから、あなたは別な人を探してください」
世の中には、その暴力亭主と合う人がいるかもしれない。
その亭主を見て「いい人だ」と思う人もいるでしょう。
「だけど、私はそう思わない。私はNO!です」
でいいんです。
嫌なものに「嫌」と言えないのは、口うるさい親に育てられ、親から嫌われるのを恐れている人に多いんです。
『変な人が書いた 人生の哲学』PHP文庫
嫌な人に「NO!」と言えない人は、「人がいい人」に多い。
「人がいい人」は断ることが苦手だ。
断ることによって、人から嫌われることを恐れるからだ。
断れない人は、逆に、人に都合よく利用されやすい。
結局は自律していないからだ。
大人になっていないということも言える。
子どもの頃から、「素直ないい子」をやってきたので、自己主張が苦手だ。
自己主張しすぎるのも問題だが、まったく自己主張ができないのはもっと問題だ。
いい人は理由がないと断れないと思ってしまうが、嫌な人に「NO!」というのに理由はいらない。
嫌だから嫌なのだ。
あっという間の人生。
我慢して生きていくにはあまりにも短すぎる。
嫌な人に対して「嫌」と言える人でありたい。 |
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