2020.7.3 |
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欠点を含めてあるがままを愛する |
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
「愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け容れることだ」
現代イタリアの劇作家ディエゴ・ファブリの言葉である。
わたしは、この言葉は「愛のリトマス試験紙」になると思っている。
恋人どうしの愛であれ、夫婦の愛であれ、親子の愛であれ、一度このリトマス試験紙によってテストしてみるとよい。
そうすれば、それが本物の愛であるか否かが分かるであろう。
たとえば、恋人どうしで、食事をするときの相手の食べ方がいやだと悩んでいる人がいる。
どうしたら相手を変えることができるか…と質問されることが多いが、それのような質問が出てくるのは、その人が相手を愛していないからである。
相手を支配しようとしているのであって、それは愛ではないのである。
自分が変われないのであれば、その相手との恋はやがては冷めるであろう。
夫婦のあいだも同じである。
二人は夫婦になってしまったのだから、その結婚を解消したくないのであれば、互いに相手を変えようとしてはいけない。
自分のほうが変わろうとすべきである。
それが結婚をつづけさせるうまいやり方である。
親子の関係だって、同じことがいえる。
親は自分の希望を押しつけて、子どもを変えようとする。
親から見た「いい子」にさせようとするのだが、それは親が子どもの支配者になろうとしていることである。
真実の愛情を持った親であれば、あるがままの子どもを受け容れるのが、真の愛だかである。
わが子の成績を一方的にしかる親は、所詮は支配者と知るべきである。
『捨てちゃえ、捨てちゃえ (PHP文庫)』
ひろさちや氏は「欠点を含めてあるがままを愛する」ことが必要だという。
たとえば、こんなエピソードを紹介していた。
『「これで袴(はかま)をつくってくれ」と夫が妻に新しい布を渡した。
「どのような袴がよろしいでしょうか」と聞く妻に、「いまはいているのと、同じにしてくれ」と、夫は言った。
そして、妻がつくった新しい袴には、現在のとまったく同じに、つぎがあてられていた。
中国古典の「韓非子」に出てくる話である。
人間は矛盾した存在だ。
いい面もあれば、悪い面もある。
いや、長所・短所といったものは他人が見た勝手な評価であって、見る人が違えば理想が欠点になり、欠点が理想になるだろう。
人間は理想と欠点をミックスした存在だ。
理想の人物像を設定することは、欠点のない人間をつくろうとするようなものだ。
それはまさに、新しい袴をつくるのと同じである。
袴であれば、つぎのないものがつくれても、現実の人間は古い袴と同じで、あちこちに穴があり、つぎがあたっている。
つぎのない新しい人間をつくることは、絶対にできないことである。
欠点があってこそ、その人の長所がある。
その人は、その人の生き方しかできないのだ。
わたしたちは、現実にあるがままのその人を、しっかりと愛することを学ばなければならない。』
「あの人はすごい人だ」、と多くの人から思われ、尊敬され、世間からも認められているような有名な人も、長年つき合い、食事をプライベートでするくらい親しくなると、意外と欠点も見えてくるものだ。
その欠点が見えてきたとき、離れて行ってしまう人と、今まで通りなんのくったくもなくおつき合いできる人もいる。
どんなに理想的な人であっても、人間である限り、必ず欠点はある。
あまりに正義感がありすぎると、相手を裁くようになる。
欠点を非難し、許さないのだ。
小林正観さんは、「ボーッとすること」「ピリピリしないこと」が大事だという。
禅に「閑古錐(かんこすい)」という言葉があるが、まさにこの「ボーッとすること」を言う。
閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。
「鈍(どん)」の人だ。
この閑古錐の反対は、目から鼻に抜けるような鋭い人、「聡明才弁」の人だ。
聡明才弁とは、頭が切れて弁の立つ人のこと。
「欠点を含めてあるがままを愛する」
ボーッと生きることも時には必要だ。 |
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