2020.6.15 |
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議論は絶対に避けること |
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齋藤孝氏の心に響く言葉より…
学生でいる間は、みなさんもたびたび議論をしたことと思います。
ところが人を説得するのに、議論は何の役にも立ちません。
それどころか、社会に出ると議論すること自体が危険をともなう、と覚えておいたほうがいいでしょう。
なぜなら、議論をしてたとえ相手を打ち負かしたとしても、相手の意見は変わらないからです。
「議論に勝つ最善の方法は、この世にただ一つしかないという結論に達した。
その方法とは…議論を避けることだった。
毒ヘビや地震を避けるように議論を避けるのだ」
とカーネギーは言っています。
この教訓をカーネギーはあるパーティーに出席したさい、学んだのです。
パーティーでカーネギーはある男性と、引用句について、出典が聖書かシェイクスピアかで議論になりました。
カーネギーは確信があったので、出典がシェイクスピアであると主張したのですが、相手は「聖書の言葉だ。間違いない」とたいへんな剣幕で詰め寄ります。
するとその場に居合わせたカーネギーの友人が「確かに聖書です」と相手の肩を持つのです。
友人はシェイクスピアの研究家でもあったので、カーネギーはひじょうに驚いてしまいます。
パーティーの帰り道、カーネギーが友人に確かめると、友人は答えます。
「もちろん出典はシェイクスピアさ。でもめでたいパーティーの席でなぜ人の間違いを証明しなければならないんだ。証明すれば相手に好かれるのかね?」
カーネギーは議論をしても何の意味もないことを悟るのです。
どんなに議論をしても、相手の考えを変えられないのであれば、議論はたんなる自己満足に終わってしまいます。
その上、議論をすることで、友だちを失ったり、上司から嫌われたり、同僚から反感を持たれてしまうのなら、議論する意味はまったくありません。
私には大学時代に徹底的な議論をして、友だちを1人ずつ失っていったという悲しい経験があります。
当時の私は完膚(かんぷ)なきまでに相手を論破することを説得だと考え、誠実さと勘違いしていたのです。
その結果、友だちがどんどんいなくなっていったという反省を踏まえ、みなさんには議論をすることがまったく生産的でないとわかっていただきたいと思います。
もちろん企画会議などで、A案がいいか、B案がいいか、意見を言うのはかまいません。
ここで言う“避けるべき議論”とは相手を徹底的にやりこめるような議論のことです。
どちらが勝って、どちらかが負けてしまう議論だと、負けた方は恨みが残りますし、勝ったほうも大して得がありません。
そもそも人はほとんど変わらないのですから、たとえ朝まで議論して、相手の間違いを正しても、人は変わりません。
そこは自分の正しさを主張するのではなく、人間関係のほうを重視して、割り切る必要があるでしょう。
『齋藤孝が読む カーネギー『人を動かす』 22歳からの社会人になる教室』創元社
萩本欽一氏は議論についてこう語る。
『「負けるが勝ち」よくこう言いますよね。
僕もそう信じています。
でも、なんで負けるほうが勝ちなんだと思いますか?
僕なりの理由はこう。
“負けたほうが運がたまるから”。
誰も必ず人と意見が衝突することがあるけれど、そういうとき「自分のほうが正しい」とか「議論に勝ちたい」って、つい思っちゃいますよね。
でも、そう思ったら負け。
勝とうとすると自分の運が減っていくんです。
だから言い合いになったときは、自分が正しくないかということより、運を減らさないことを大事に考えたほうがいいの。
相手が「てめえ、ばか野郎!」と言ってきたら、「あ〜あ、あの人、自分の運を減らしちゃったよ、その分をこっちがもらっちゃおうかな」と心の中で考えるの。
具体的な方法はどうすればいいかというと、謝っちゃうんです。
「そうか、悪かったね」とか、「ごめん、君の言う通りだよ」って言えばいい。
もう一つ大事なのは、自分が一歩引くことによって、相手に嫌われるのを避けられるっていうこと。
人に嫌われないっていうことは、すごく運になるの。
人生って結局、運をどれだけためられるかっていう勝負なんです。
だから、そのほかの勝負で勝とうなんて思わなくていいの。
だからバ〜ンと言われても、ぐっとこらえて言い返さない。
負けるが勝ち。』
議論になったとき、多くの人は、自分が正しいことを証明したがる。
逆に言えばそれは、「あなたは間違っている」と言い立てること。
そしてそれは、自分を認めて欲しいという思いの表れでもある。
しかし、議論に勝ったところで、相手は嫌な思いになり、段々と離れて行ってしまう。
いつも大声でまくしたて、人の話も聞かずに、一方的に自分の意見を押しつける人を好きになる人はいない。
だからこそ…
議論は絶対に避けること。 |
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