2020.5.4 |
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今、目の前に起きている現象は過去の集積 |
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塩野七生氏の心に響く言葉より…
立花隆さんは「教養はまず役に立たないものである」と言っていますが、これは、私に言わせると19世紀的な教養の概念だと思うんです。
19世紀というのは、ヨーロッパの有産階級ができ上った時期なんですね。
その人たちは有産階級ですから、お金があって、家もあった。
働く働かないにかかわらず裕福だったわけです。
そういう人たちが、「教養は役に立たないものである。しかし、教養は大切である」っていうことを言っていたわけです。
けれど、私の関心の的である、それよりも以前のヨーロッパへ行きますと、そうではないんです。
たとえば、ルネサンス時代には、教養というものは役に立つものだという考えでした。
イタリア語にアルテという言葉があります。
これは芸術と訳されることもありますが、アルティザンというと職人のことで、イタリア語でアルティジャーノと言うのですけれど、アルテはそのもとの言葉で、本来は専門の技術という意味です。
おそらく、職人がひとつひとつの専門をもっていたということからきたのでしょう。
ところが、ルネサンス時代は、専門の技術だけではだめだったんです。
当時、フィレンツェでとくに盛んだったのが工房でした。
ミケランジェロもそこで修行しているし、レオナルド・ダ・ヴィンチも工房の出身です。
だけど、その工房では、ひとつだけを専門にやっていたのではだめなんです。
そういう人は助手の助手の助手ぐらいの地位に甘んじるしかなかった。
彫刻家であっても、画家などの仕事にも通じていることが要求されたんです。
というのも、彫刻家でも、画家的な視点で人間を見れば、また別の見方ができると考えたわけです。
それが、いわゆるルネサンス人なんです。
その典型がレオナルド・ダ・ヴィンチですね。
彼は万能の天才と言われていますが、それは、ルネサンスでは、万能というよりもすべてを押さえるというような意味なんです。
つまり、彫刻ではどういうようなやり方をするか、建築家はどんなふうな作り方をするか、彫金家はどんなふうにするかと、そういうことをすべて押さえると、今度は絵を描く時、今までの画家とは違った絵が描けると彼らは考えたんです。
そういうルネサンス時代の教養が、私は教養というものの原点だろうと考えるのです。
つまり、ルネサンス時代の教養というのは、他の人たちの専門分野にも好奇心を働かせるという意味なんです。
田舎暮らしを優雅にするためというような、イギリスのジェントルマンの時代の概念とは違うわけです。
教養は、イタリア語ではクルトゥーラと言います。
この言葉の語源であるコルティヴァーレという言葉になると「耕す」という意味です。
他のことをやっている、そういう人たちの仕事も、自分は知りませんなどとは言わずに、好奇心を働かせて理解する。
そうすると、自分の専門技術だけでは達成できなかったことも達成できるかもしれない、ということなんです。
『生き方の演習 ―若者たちへ―』朝日出版社
リクルートから、東京都で民間初の中学校校長になった藤原和博さんは「10年後、君に仕事はあるのか?」という本の中で、こんなことを言っている。
自分の専門分野は、できれば3つあった方がいい。
それも、その3つの分野が離れていればいるほどいい。
例えば、レストランのシェフだったら、ITの技術者であり、音楽家、というような。
その3つをかけ合わせ、組み合わせたとき、金メダル級のレアな人材になれるからだという。
まさに、これはルネサンス時代の教養と同じ考え方。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学などを身につけたといわれる。
さらに、ヘリコプターや戦車を概念化し、太陽エネルギーや計算機の研究もした。
先の見えない不確実な時代、これからはますます今までにないテクノロジーやシステムそして、新ビジネスが求められている。
今こそ、新たな教養を身につけ、次の未来に向かって進んでいきたい。 |
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