2020.4.28 |
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心ひとつの置きどころ |
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中村天風師の心に響く言葉より…
とにかく、何をする場合でも、現在恵まれている自分を感謝しなければいけませんよ。
病(やまい)になっても、運命が悪くなっても感謝するんです。
こう言うと中には、
「何かもらったらとか何とかなら感謝もするが、患(わずら)って感謝する馬鹿があるか」と言う人もいるわね。
でもそういうふうに考える人があったら、そう考える人こそ馬鹿ですよ。
私も初めてそれを言われたときわからなかった。
私がインドでひどい病を患っていたときです。
毎日、そりゃ形容もできない病の苦しさで辛い思いでいたとき、ある朝、私が教えを受けていた先生が、
「お前って、世界一の幸福者だね」
と、こう言うんです。
明日をもしれない重病で苦しんでいる時だけに、その言葉を聞いて私、腹がたちましたよ。
「ひやかしも、いい加減にしてください」と言ってやりたかったが、向こうは階級の違う先生だから、突っかかっていくわけにもいきません。
そうしたら、
「お前よく考えなさい。
お前は自分が現在患っていることを非常に恨みがましく思っているかもしれないけれど、死なずに生きていることをなぜ感謝しないんだ。
よしんば、死んだからって喧嘩(けんか)にもならないし、それにまだ死なずに生きているじゃないか。
そのうえ、その病があればこそ、このインドの山の中まで来て、人生というものを研究しようというい真面目な気持ちになれるんだ。
もしも病がなかったら、何の役にもたたない他の所へ行ってしまうだろう。
それを考えてみれば、病に対してなぜ感謝しないんだ」
と言われ、ああそうか、私は阿呆(あほう)かいななあと思った。
私、世の中にはもっと恵まれて丈夫で幸せに生きている人もあるだろうに、自分は何も悪いことをした覚えもないのに、こんな病を患うなんて、神も仏もあるもんかって考えてた。
ありがたい、嬉しいなんて気持ちはちっともなく、見当はずれな恨みをもち、愚痴を言っていたんです。
だから自分ながら愛想のつきるほど汚い気持ちと、不平不満ばかりで、感謝しなければならないような場合でも感謝せず、何の権利もないくせに自分だけには幸せな運命が来るのを当然のものとし、それをなし能(あと)う資格があるように、その当時の私は考えてた訳なんです。
ですから、感謝の念のない人間は不幸ですよ、ほんとうに不幸ですよ。
もののありがた味がわからないのですから。
何を見ても聞いても腹がたって、コンプレックスを感じる人生が愉快ですか?
つつましやかに感謝の念をもって生きるようになったら、どれだけ人生のスケールが大きくなるかわからないでしょう。
結局、人生といっても、それを決定するものは、心なんです。
昔から言っているでしょう、「心ひとつの置きどころ」と。
側(そば)からは辛かろう、苦しかろうと思うようなことでも、本人がああ嬉しい、ありがたいと考えれば何でもないんだ。
何もかも心の置きどころを替えることです。
『君に成功を贈る』日本経営合理化協会出版局
「無一物中、無尽蔵(むじんぞう)、花有(あ)り、月有り、楼台(ろうだい)有り」
という詩がある。
千年ほど昔、中国の蘇東坡(そとうば)という詩人が詠んだ歌だ。
我々は、ないことを嘆く。
病気も同じで、足が痛いなら、それ以外は無事なのに、そこを見ることはしない。
すると、不平不満、文句のオンパレードの毎日となってしまう。
しかし、見渡せば、野には花もあるし、月もあるし、それを見る高い建物(たかどの)もある、という詩だ。
我々は本来、はだかで生まれてきた。
それを裸一貫(いっかん)という。
自分の体の他には何の資本もないということだ。
そのことを、俳人小林一茶はこう言った。
「はだかにて生まれてきたに何不足」
本当は、我々は生きているだけでありがたいのに、年を重ね、浅知恵がたまってくるにしたがって、不平不満や文句が多くなる。
「人生は心ひとつの置きどころ」
この今、死なずに生きていることに感謝…
この今、日本に、そしてこの地域に、自分の両親のもとに、生まれたことに感謝…
感謝の気持ちで、この今を過ごしたい。 |
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