2020.4.7 |
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逆境や困難に慌てない |
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新渡戸稲造氏の心に響く言葉より…
人は突然不幸に見舞われると、それがどの程度のものなのか、大きさが分からなくなる。
例えば、足元から急に鳥が飛び立つと、その大きさや種類までも分かってくる。
天災あるいは人による災いに遭遇した時も同じで、その瞬間は目がくらんで真相を見誤ることがある。
そして小さなことを大きく考えたり、大事なのに軽んじたりして、無駄に心を労したりする。
また禍いに見舞われた時、すぐにその始末をすると、その結果が将来まで尾を引いてかえって悪い結果を生じることがあるから、一歩退いて冷静になって対処することが必要である。
もちろん、失火とか病気とか、直ちに対処しなければならないものもある。
しかし火災の後の始末、家の再建などは考える余裕があるし、病気についてはどう対処するか、よく考えた方がいい。
僕の友人で、働きすぎから重い病気にかかった者がいた。
彼が発病した時、彼の妻は非常に心配して泣き出したが、友人が入院した翌日、「自分も非常に驚き疲れたので、3日間保養に行きたい」と言い、友人を看護の人に託して保養に行ってしまった。
3日間過ぎると妻は戻ってきて献身的に友人の介護を始めた。
結局この友人は全快するまでに3年以上かかったのだが、病気が癒えたのち、妻に「あの時保養に行ったのはどういう考えだったのか」と尋ねると、
妻は「あなたの病気が長くかかることが分かり、かつ私もあの時、あなたの病気がショックで吐血しました。看護する大切な役目があるのに自分が病に倒れることがあってはと思い、少し静養して気を静め、あなたの病気にどう対処するか考えたのです」と言った。
すべて禍いや不幸は不意に起こるものである。
慌てず落ち着いて前後を考え、物事の軽重を比較して対処法を考えることが大切である。
やみくもに大変大変と騒ぐとますます逆境に深入りしてしまう。
『逆境を越えてゆく者へ』実業之日本社
新渡戸稲造氏は本書の中で「逆境」についてこう語っている。
『僕は逆境にある人に、もう少し爪先立ちをして前を見ることを切に願う。
僕はたくさんの青年を知っているが、中には学校の試験に落第した者、校則に違反して退学を命じられた者、商売で失敗した者、養子に行ったが先の人たちと意見が合わなくなった者、病気になり医者から警告を受けた者などいろいろいる。
青年の傾向として、一度落第すればもう学問はできないと思ったり、退学を命じられると世界中に勉強する場所は他にないように思い込んだり、一時意見が合わなくなると永久にその家の人たちとはやっていけないように思ったり、医者から注意されると直(ただ)ちに死の宣告を受けたかのように思ったりする。
こうした時に、「さて、この先は…」と静かに熟考すれば、必ず前途に光が見えるはずである。
かつて、後藤男(だん・後藤新平)からこんな話を聞いた。
後藤が勝海舟を訪れた時のこと、勝翁が「君は医学生なら首の筋肉作用くらいは知っているだろう。ろくに知らない奴が多いんだよ。縦や横に動かすことは知っていても、何か事が起こった時に、チョイット首を伸ばして向こうの先を見通すことのできない奴が多い」と言われた。
まさにそのとおりで、事が起こるとただ慌てふためくばかりで、「さて、この先は…」と首を伸ばすことはなかなかできない。
だから昔の人も、「窮地に陥り勢いのなくなった人は常に初心に帰るべし」と言っている。』
「山を出なければ山は見えない」
という、特別尼僧堂堂長・正法寺住職、青山俊董氏の言葉がある。
我々は、山の中に入り込んでしまうと、今自分がどこにいるのかを忘れてしまう。
これは、逆境や困難という山も同じだ。
その中に入り込むと自分を見失ってしまい、不必要にあわてたり、不安で取り乱したり、泣き叫んだりする。
不安の渦に巻き込まれそうになったときは、自分を他人のように客観視して見る。
「さあ、どうする(自分)」、「さてこの先は…」と突き放してゲームのように見てみる。
そのとき、自分があまりに、真面目過ぎることや、近視眼的であることに気がつき、ニヤリと笑いが浮かんだらしめたものだ。
逆境や困難を越えてゆく者でありたい。 |
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