2020.1.21 |
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才能ではなく継続だ |
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佐々木典士氏の心に響く言葉より…
ぼくはいつも自分のことを「才能がない」と思っていた。
何をやっても真剣に続くことはなく、スポーツでも勉強でも大した結果は残せなかったからだ。
しかし、習慣を学んでいくにつれて考えが変わった。
今の自分に、才能があるかどうかなんて、大した問題じゃない。
才能は「与えられる」ものではなく、習慣を続けた果てに「作られる」ものだからだ。
ぼくは坂口恭平さんという作家が好きだ。
書く小説は、普通の作家とはまったく違う言葉の組み合わせで書かれている。
そしてギターで心揺さぶる曲を作ることができるし、現代美術家顔負けの絵も描ける。
最近は椅子を作ったり、編み物までしている。
どうみたって天才に見える。
しかしそんな坂口さんも活動を始めた時は、父親から「才能ないんだから作家なんてやめなさい」と言われ、弟さんからは「下手な鉄砲数打ちゃ当たってるだけだ!」と言われていだそうだ。
そんな坂口さんが口癖のように言っている言葉がある。
「才能ではなく継続だ」と。
イチローも村上春樹も、第一線で活躍している人は誰だって自分のことを天才ではないという。
その一方で、ぼくたちが魅了されるのはいつだって天才の物語だ。
怒りによって、才能が目覚める『ドラゴンボール』。
ケンカしかしてこなかったはずの主人公がいきなりすごいジャンプ力を見せる『スラムダンク』。
選ばれし者が、突然自分の能力に目覚める『マトリックス』のようなハリウッド映画。
現実の生活をしばらく送っていれば、才能がどうやらこういうものとは少し違うということはわかってくる。
天才たちを見れば、誰でもきちんと努力をしている。
こんな言葉もある。
《天才とは、ただ、努力の継続ができる人のことをいう》(エルバート・ハバート)
なるほど、天才は努力を続けられる人のことかもしれない。
ぼくが次に思ったのはこうだ。
では自分には、その「努力を続けられる才能」がないのではないか?
ぼくは今、才能も努力という言葉も誤解されて使われていると思っている。
才能というのは天から与えられるようなものではないし、努力は歯を食いしばるような苦しみのことでもない。
●才能は「与えらえる」ものではなく、努力を続けた後に「作られる」ものである。
●その努力は、習慣にしてしまえば継続できる。
●その習慣の方法は、学べるものである。
『ぼくたちは習慣で、できている。』WANI BOOKS
何かを続けるということは、それが好きだとか、嫌いだとかで決まるものではない。
それを続けることが、そんなに嫌ではない、苦痛ではない、苦にならない、という理由がもっとも大きい。
自然と続き、気がついたら、何十年と続いてしまっていた、ということだ。
そして、結果として、それが一番「好きだった」ということになる。
逆に、好きで好きで仕方がないことは、意外と続かない。
それは、感情には山があれば谷があるという起伏があるからだ。
好きで好きで仕方がない状態は長くは続かない。
必ず、いつかはテンションが下がるときがくる。
だから、物事を継続するためには、感情の起伏なく、冷静で、淡々としている状態がいい。
感情がマックスのまま続けたら、じきに体や心が悲鳴をあげ始めるからだ。
これは、仕事も、結婚も、勉強も、読書も、ブログを続けることも、そして様々な趣味も同じだ。
「才能ではなく継続だ」
淡々と継続する、という才能を身につけたい。 |
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