2020.1.8 |
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一生を楽しく学ぶ |
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精神科医・医学博士、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…
「一生を楽しく学ぶ」…後半生は特にこのことを大切にしていきたい。
実は人生の前半の勉強はあまり楽しくない。
文字どおり「強いて勉める」意味合いが強い。
けれども後半生には「せねばならない」という勉強はあまりない。
「したいからする」のだから楽しい。
楽しくなかったら、やめてしまえばいい。
いつの日か、ゆっくり外国を旅行することを夢見て英会話の勉強を始めた人がいる。
こういう勉強はしていても苦にならない。
子どもや孫たちの誕生日にケーキをつくってあげたいというのでお菓子の学校に通っているご婦人もいる。
とても幸せそうだ。
幸せそうな人というのは、見ていて気持ちがいいし、話しているとこっちまで楽しくなる。
みんな、自分の器を淡々と生きている人たちである。
こういう人たちには、教えられることも多い。
日本は学歴偏重社会であるといわれている。
最終学歴はどこか、どの大学を出たか、そんなことがいつもついてまわる。
会社に就職するための履歴書くらいならまだ仕方がないとしても、結婚式での新郎新婦の紹介で「何々大学を優秀な成績で卒業され」というのが決まり文句のようだ。
不思議なのは、どこの大学を出たかを知りたがる人は多いが、何を学んだかを知りたがる人はあまりいないということだ。
何気ない会話の途中で「失礼ですが、どちらの大学ですか」などと無作法なことを平気で聞いている人もいるが、「どこどこです」と答えると、「ああそうですか」で終わってしまう。
そこで何を学んだかより、どこの大学を出たかに興味を持っているようで、「レッテル」と同じと考えられているのだろう。
最終学歴がどうのというのは、たかがそんな程度のもので、新しいうちはピカピカと光っているかもしれないが、そのうちに古くなり、ポロリと落ちてしまう。
人生の後半生ではそんなレッテルは通用しない。
もともと、意味がないのだから。
大学を出たとしても、学校に通っていた期間は小学校から通算すればたかだか16年。
人生、後半にでもなればそれよりも長い期間、社会で学んできたことになる。
あえていえば、大学で学んだか否かはもう関係なくなっている。
それよりも社会でどう生きてきたかに責任を持たなくてはならなくなっているはずだ。
こちらの方にもっと自信をもってみてはいかがか。
もし、ある年齢以上の人にいささかの敬意がはらわれるのだとしたら、
「失礼ですが、社会に出てどれくらいの期間学ばれました」
というのが正解だろう。
自分のレッテルにしがみついたり、人のレッテルをいつまでも気にしたりするのではなく、自然体で自分の器を堂々と生きていきたいものだ。
『さあ、これから気持ちの大掃除! (新講社ワイド新書)』
どこの大学を出たかを聞く人は多いが、「何を学んだか」を聞く人は少ない。
それは、我々が「大学名」や「会社名」、「肩書」「役職名」などのレッテルを気にするからだ。
中身を重視することなく、外見やうわべで判断してしまう。
人生100年の時代に、もし、小学校から大学までの16年間だけしか学びの期間がないとしたら、人としての進歩は全くなくなってしまう。
むしろ、学校を出てからが本当の学びの時であり、そちらの方が圧倒的に長い。
まさに、「リカレント教育」と言われる生涯学習や学びなおしの時代に入ったのだ。
「一生を楽しく学ぶ」
いくつになっても、好奇心を持ち…
一生を楽しく学び続ける人生でありたい。 |
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