2020.1.6 |
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「一番」ではなく「一流」になろう |
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伊那食品工業会長、塚越寛氏の心に響く言葉より…
同業の大企業同士が、規模の限られた市場の中でシェアを争い合う様子を見ると、やはり「何のためだろうか」と思います。
全国チェーンの店舗展開なども、あまりに急速で、地域にもとからあった他店への影響も心配ですし、自社の既存の店舗も維持できなくなっていくのではないでしょうか。
支店を増やすことは悪くはありませんが、ある程度じっくりと時間をかけて増やしていけば、人に迷惑をかけることなく成長していけると思います。
本来、店を増やすのは、お客様に価値が認められ、求められて行うことではないでしょうか。
また、「世界一」という看板を掲げて商品の販売個数を誇示する大企業がありますが、世界一になることにどんな意味があるのか、聞いてみたいものです。
「業界で一番になろう」「日本一になろう」といった目標を果たしたところで、それが企業や社会に何をもたらすのでしょうか。
それを誰が望み、誰が期待しているのでしょうか。
一番と二番で何が違うのでしょうか。
二番でも強い会社になっていけば、何も問題はありません。
内部留保をきちんとやり、社員教育をし、研究開発を着実に続けるとともに、メセナ活動、ボランタリー活動に力を入れることによって、世の中の役に立てる仕事をしていけば、一番でなくとも必ず強い会社になれます。
要は、利益をいかにバランスよく生かすか、です。
真に強い会社は、結果としていずれ、自然に一番の会社になれることでしょう。
トップになることに人間として根源的なテーマがあるのなら、みんなが応援します。
しかし経営者の一時的な虚栄心を満たすためでしかないなら、そのような目標も、目標を達成した状態も、長くは維持できないでしょう。
地球上の歴史が示しているように、トップの地位を何百年も保ち続けた会社はありませんし、一定額以上の売上を得たからといって、会社が永続する保証はありません。
巨大な企業と老舗はイコールではないのです。
それにもかかわらず、なぜ多くの企業が売上高や組織規模の拡大を急ぐのでしょうか。
大きくすることよりも、いい商品やいいサービスを提供し続け、社員も仕入先も幸福になって、世の中もよくなるということが、本来の事業の姿であると思います。
『幸福への原点回帰』(鍵山秀三郎&塚越寛)文屋
鍵山秀三郎氏が本書でこう語っている。
『「一番」ということで思い出すのは、「常に一流たるを目指せ」という言葉です。
長野県内の小中学校で教鞭をとられた毛涯(がい)章平先生はその意味されるところを、次のように説いておられます。
「一番とは一人の座なり。一流とはすべての者の至り得る所なり」。
一番を目指して、「収益を伸ばすためには手段を選ばない」というような成果主義、結果主義は、実に危険です。
日本全体が、成果を求め、効率を高めることに躍起になっている現状は、放っておくと危険度を高めていくでしょう。
成果主義では、早く結果が手に入りさえすればよいわけです。
人をだましても、ごまかしても、手を抜いてもかまいません。
ですから、人々はだんだんと手抜きをするようになりました。
人間は、手間のかかることや面倒なこと、ほんとうはやりたくないことをやったときにだけ、頭脳が成長し、人格も豊かに形成されていきます。
これは医学的にも実証されつつあることです。』
多くの会社は、規模の拡大を目指す。
いわく、「目標売上〇〇億円」、「店舗数〇〇店」、「利益〇〇円」等々だ。
しかしながら、それはお客様には何も関係のない話。
もっと言うなら、それは働いている人もあまり関係ない話だ。
売上が上がったからといって、お客様が得するわけでもなく、働いている人の待遇や処遇が変わるわけではない。
近くのコンビニが何万店になろうが、個人としては何も嬉しいわけではない。
我々が本当に目指すべきは、売上規模や店舗数ではなく、一店一店、一営業所一営業所のレベルを上げ、一流になっていくこと。
塚越氏のいう「いい会社になろう」ということだ。
「いい会社」や「一流の会社」になることこそが、お客様や従業員が喜ぶこと。
そして、「いい会社」は長く続く。
我々がこの世に生まれてきた究極の目的は、「人に喜んでもらうこと」。
これは、会社も全く同じ。
大会社になることでも、大金持ちになることでもない。
「一番」ではなく「一流」をめざしたい。 |
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