2019.12.27 |
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ほめる門には福来る |
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明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
今、超能力の研究では、人が念じたことはテレパシーのように通じることが証明されつつあります。
だとすると、念じたり、思い込んだりする力が、自分を元気にしたり、反対に具合を悪くする可能性もあります。
自分に何かがとりついて、元気がなくなったと思うのなら、お祓いという行為も無意味とは言えません。
たとえば自分が借りようとする部屋で、前の借り主に不幸な事故など何かあった場合は、何となく嫌な感じがします。
そういう時はとりあえずお祓いだけはちゃんとやっておくと安心できます。
私もかつて中古物件を買った時に、なんとなくスッキリしたくてお祓いをしてもらったことがあります。
家に紙吹雪みたいなものをまいて、とても面白かったのですが、それをしてもらうと、「もうこれで大丈夫になった」と安心した気分になりました。
私はひじょうに合理的な考え方をする人間ですが、それでも、そういうことをやってすっきりするなら、やってしまおうと思ったわけです。
占いなどでどんなに「運」がいいと言われた人でも、不運がないわけではありません。
でも「運」がいいと言われたことを信じて、「いつか自分に運がめぐってくるかもしれない」と思うことで元気が出るのであれば、それでいいと思います。
ですから自分に都合がいい占いやお告げは信じておいて、悪いことを言われたら無視すればいいのです。
適度な距離感を持って接するということで、茶柱が立ったら「今日はいいことがあるな」と思っておき、茶柱がたたなくても「悪いことがあるな」とは思わないことです。
その意味では、「吉となる兆し」、つまり吉兆だけを見つけておいて、不吉な兆しについては考えないのがいいでしょう。
「黒猫が目の前を横切ったから、不吉な兆候だ」とは思わないで、「黒猫を見つけたから今日はいいことがありそうだ」と、あちこちに吉兆を見つけていく生き方をすれば、人生を明るくすごせます。
変なことが起きても、「これは吉兆だ」と思えるようになってくるので、総じて「運」がよくて、いい人生だなと思いながら死んでいけるでしょう。
茶柱や黒猫が幸運の兆しなのか、不吉の兆候なのか、証明することはできないのですから、それならみんな吉兆にしてしまって、自分の周りを吉兆だけで満たしていけば、バカ高い開運グッズなど買わなくてもすみます。
少なくとも、不吉な兆候として受け取る人よりはるかに、楽しく明るい人生が過ごせることは確かです。
大学の私のゼミで力を入れているのが「ほめること」です。
「ほめて、ほめて、ほめまくれば、ひとまず君らの人生は安泰だ」と教えています。
ちょっと弱点のある学生も、私にほめられ、自分でも人をほめるようになり、「ほめ」の継承が好循環を生んで、「運」が回るようになりました。
私は「ほめる門には福来る」という標語をつくっています。
まさに「ほめは人のためならず」。
人をほめれば自分のためにもなるのだよ、という考え方に間違いはなかったと思っています。
「運」が悪い人は、自分が得をしよう、うまい汁を吸おうとさもしく立ち回ります。
ほめるぐらいはやっても損はしないと思いますが、人をほめることさえもしません。
ほめると損をするとでも思っているのかもしれません。
でも、世の中はあまりに自己中心的に求めすぎると嫌われてしまいます。
「損して得を取れ」ではありませんが、時給ゼロでも相手のために一生懸命働いていれば、やがて大きな仕事が入ってきます。
あまり自己中心的にならずに、人のためにも一生懸命やってみる。
そして惜しまず人をほめ、たたえる。
そうすると幸運の風が吹いてきます。
『運の教科書: 「うまくいく人」はこう考える (単行本)』筑摩書房
手相や占いをみてもらった時に、悪いことや不吉なことを言う占い師がいる。
「あなたのご両親か兄弟に病気が出ますよ」とか「近々、お金で困ったことが起こります」とか。
そういう占い師は、悪魔に魂を売り渡してしまっている、と言ってもいい。
なぜなら、その占い師は自分の占いが間違っていないということを証明するため、その占いが当たることを願うからだ。
つまり、他人の不幸を願う。
人がこの世に生まれてきた大きな目的のひとつは、「まわりの人に喜んでもらうこと」であり、「まわりの人の役に立つこと」。
「ほめる門には福来る」
ほめることを多く…
いつも上機嫌で、運を引き寄せる人生を送りたい。 |
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