2019.11.25 |
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今日、ただ今、この刹那を生きる |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
《「過去」を悔やむことはなく、「未来」を心配することもない。ただ一つ考えているのは「念を入れて生きる」ということ》
「念」という字を分解すると、「今」の「心」と書いてあります。
「念」を入れるということの意味は、とてもわかりやすく文字に書いてあるのです。
「念」とは「今」の「心」。
「今」を大事にする「心」。
「今、目の前にいる人を大事にし、今、目の前にあることを大事にすること」
お釈迦さまが、弟子にこう聞かれました。
「お師匠さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が見えるとのことですが、私の前世はどんなものだったのでしょうか」
お釈迦さまはこう答えたそうです。
「そんなことは考えなくてよいから、今日(こんにち)、ただ今、この刹那(せつな)を大事にして生きなさい」
弟子はしばらく黙っていましたが、再び聞きました。
「私の来世はどんなものでしょうか」
普通の人なら「わからずや」と呼ぶところでしょうが、お釈迦さまはやはり静かに、こう言いました。
「そんなことは考えなくてよいから、今日、ただ今、この刹那を大事にして生きなさい」
お釈迦さまが使った「この刹那」というのは、今の一瞬一瞬のこと。
現代では「刹那主義」と言えば「今さえよければあとはどうなってもいいと思うこと」との意味ですが、本来の「刹那主義」とは一瞬一瞬を大事にして生きる思想、考え方のことでした。
私も時々人から聞かれます。
「私の前世は何だったのでしょう」
そのたびにお釈迦さまの答えを引用していますが、時にこんな回答もつけ加えます。
「仮に前世が殺人者で、あるいは強盗で、あるいは詐欺師であったとしましょうか。では、今生でのテーマは何だと思いますか?」
「わかりません」
「今生では、ほかの存在、これは人だけでなく動植物全ての存在ですが、その存在たちから喜ばれる存在になることではないでしょうか」
「なるほど」
「では、前世で、多くの存在たちから喜ばれる存在だったとしましょう。今生でのテーマは何でしょうね」
「……」
「今生でのテーマは、もっと喜ばれる存在になりなさい、ということではないでしょうか。そう考えたら、前世が何者であったかはどうでもよいことになる。今生でのテーマは、いかに多くの存在物から喜ばれる人になるか、ということですよね」
「私のこの考えは、「念」という言葉から生まれ出てきたものです。
「念」という言葉は、「念じるとそうなる」「そうならないのは念じ方が足りないからだ」というように、「自分の思い通りに未来を作る」「未来を呼び寄せる」という意味に使われてきました。
しかし、「念」ということの本当の意味としては、そんな「未来的」な意味は全く含まれていないのです。
「念」とは「今」の「心」、としか書いてないのですから。
そして、仮に、目の前の人を大事にし、目の前のことを一つ一つ大事に、やっていったとします。
その「念」を入れた生き方は“未来”につながっていくでしょう。
「今」が独立して存在しているわけではない。
「今」の積み重ねが“未来”を作っているのです。
『生きる大事・死ぬ大事 死を通して見えてくる幸せな生き方』イースト・プレス
「人生二度なし」と言ったのは、哲学者の森信三先生。
今日やるべきことを明日に延ばさない、ということであり、今日(こんにち)ただ今しかないのだ、という気持ちで生きること。
アメリカの9.11の同時多発テロで、有名になった、「最後だとわかっていたなら」という詩がある。
『あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしはあなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしはその一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう』
「今生でのテーマは、多くの存在から喜ばれるように生きること」
『一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず』(中村天風)
二度とない、今日、ただ今、この刹那を、一所懸命に生きていきたい。 |
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