2019.10.16 |
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人生は祭り |
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斎藤一人さんの心に響く言葉より…
オレは、人生を、こういうふうに思っているのね。
神さまからのご招待なの。
何のために、地球にご招待されたんですか、っていうと、お祭りなの。
そう、人生はお祭りなの。
一人さんの人生は、「斎藤一人」という男の祭りなの。
祭りだと思って自分の人生を生きるんだよ。
自分の人生を「祭りだ」と思って生きていると、いかにも、祭りらしい人生になるんだよ。
どういうことですか、っていうと、たとえば、リオのカーニバルって、あるじゃない?
リオのカーニバルで踊っている人に、シンキくさい話をしたり、つまんなそうな顔をしている人、いるかい?
いないよね。
祭りのときは、祭りに合わないことはしないものなんだよ。
それで、年に一度の、リオのカーニバルの開催日を目指して、みんな、いっしょ懸命、働くんだよな。
オレの場合は、毎日がお祭りなんだよね。
人生が祭りだから。
「斎藤一人」とい、男の祭りなの。
男の祭りっていうと、オレのイメージでは、粋に酒をあおって、いい女がそばにいて(笑)。
だから男は、わっせ、わっせ、神輿(みこし)を担ぐんだよな。
要はカッコつけるんだよ。
カッコぐらい、つけたほうが、いいんだとオレは思ってるの。
祭りなんだから、カッコぐらい、つけたほうがいいんだよ。
人生が祭りだから、オレは、仕事もお祭りのようにやっちゃうんだよね。
ただ担いでいたんでは、神輿が重くてしょうがないの。
だから、神輿の担ぎ手は、もんで、もんで、神輿をもむんだよ(神輿を激しくゆり動かすことを「神輿をもむ」と言います)。
「神輿をもむ」というのは、カッコつけてるの。
カッコつけるからこそ、神輿は面白いんだよ。
神輿の軽いやつなんか、ピンとこないよ。
重いぐらいが、ちょうどいいんだよね。
それで、わっしょい、わっしょい、ゆらして、ゆらして、ゆらす。
しんみり担ぐと、全然、燃えないよ。
燃えて生きたいんだよ。
だから、オレは、わっせ、わっせ、もんでもんで、もんで進むんだよね。
こうやって仕事をしていると楽しいんだよ。
人生は祭りだと思って生きていると、人間関係も楽しいし、人生が全部、楽しいんだよ。
そして、斎藤一人という人間は、たった一人でも、「お祭り」をやり続けるの。
なぜですか、って、それがオレ、斎藤一人だから。
『斎藤一人 極楽人生 あなたの人生が急に面白くなっちゃう(信長出版)』(道井さゆり)
小林正観さんの「無敵の生きかた みんなが味方になる」(廣済堂出版)の中にこんな一文がある。
『古事記の中にある「天岩戸(あまのいわと)開き」という話の中に、神様の性質が隠されています。
それは次のような話です。
「須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴な行動に怒り、天照大神(あまてらすおおみかみ)は天岩戸に閉じこもってしまいました。
すると、すべてが闇になり、さまざまな禍(わざわい)が生じます。
どうしたらいいものかと八百万(やおよろず)の神が相談し、さまざまな儀式を行いました。
そして、天細女命(あめのうずめのみこと)が天岩戸の前で桶を伏せて踏み鳴らし、踊ることになったのです。
この踊りを見た八百万の神々から、笑いの渦(うず)が巻き起こります。
楽しそうな笑い声を聞いた天照大神は、周りで何が起こっているのかと思い、天岩戸を少し開けて問いました。
そこへ、待ち構えていた天手力男神命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸を開け、世の中に光が差し込むことになったのです」。
この物語では、天照大神は、「泣いてもわめいてもお願いしても、聞いてくれない」ということを教えています。
単なる神話だと思う方もいると思いますが、私にはそうとは思えないのです。
物語をとおし「神様を動かすには、お願いごとをしても駄目なんだ」ということを、私たちに教えて下さっているように思えました。
「自分の人生が思いどおりにいかず、辛いので何とかして下さい」と言っても、神様は聞いてくれません。
「面白がること」「楽しむこと」「幸せに過ごすこと」こそが、神様を動かすために有効な手段らしいのです。』
天岩戸開きにあるように、神さまが一番喜ぶのは、周りが「面白がること」「楽しんでいること」「幸せに過ごしていること」。
だから、お祭りの後には必ず「直来(なおらい)」という、飲食の場がある。
現在では、神事が終わった後の宴会のように捉えられているが、本来は、神と人が同じ食物を味わうということ。
シェイクスピアは、「この世は舞台、人はみな役者だ」と言った。
自分で脚本を書き、自分が主役の舞台。
まわりの人は、自分を盛り上げてくれるたくさんの役者たち。
そして、舞台は、「祭り」。
フェデリコ・フェリーニは、「人生は祭りだ。一緒に楽しもう。」と言った。
人生という祭りを楽しみたい。 |
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