2019.9.22 |
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眼力と育てる力 |
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明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
眼力(がんりき)を持つことのすごさ、大切さをはっきりと示す状況の一つに、結婚がある。
結婚を間違えてしまうと人生の修復が難しい。
反対に、結婚さえ間違わなければ、ある意味一生安泰だ。
言葉は悪いが、眼力一つで一生楽しく暮らしていける。
相手からもパートナーとして認められる必要があるという意味では、もちろん自分自身も磨かなければいけないとは思う。
だが、男の立場から言わせてもらえば、概して能力のある男は、自分の才能や実力を早くから見定めてくれる“眼力のある女性”に非常に弱い。
女性は、その有望株を若いうちに刈り取って、自分のものにしてしまうことが肝心だ。
有名になってしまった後では、競争も激しくなるし、育てる楽しみもない。
自分が見抜いた男を世に出したい。
これは女性にとって、趣味と実益を兼ねたゲームになる。
これはプロデュース欲とも言える。
子どもを産み育てたいという気持ちも、プロデュース欲とは無関係ではない。
人を育てることは大きな楽しみの一つである。
一般には欲望として認知されていないが、相手をどういう人間に育てたいかというのは、自分がどうなるかより気持ちが浮き立つ。
自分がよほど才能にあふれていれば自分自身を育てるのもおもしろい。
しかし、そうでない場合、子どもや恋人や生徒を育てることの方が総じて人生の大きな楽しみになる。
眼力とは、このプロデュース欲を的確に満たしてくれるものだ。
逆に言えば、眼力のない人は、プロデュース欲という大きな欲望を満足させることが難しい。
私自身は、このプロデュース欲を「教育欲」と呼んでいる。
多くの人は、自分が幸せになること、欲望を満たすことに対して「欲」という言葉を使う。
しかし、人を教育したいという欲求というのは、実はそれ以上に強力なもの、恐るべきものなのである。
その教育欲の基盤になるのも「眼力」だ。
眼力があれば、自分の子どもであろうと、「大人物にはならないな」などとすぐ見抜くことができる。
眼力がないと教育欲がねじ曲がってしまい、親子ともども悲惨な目にあう。
『眼力』三笠書房
本書の中にこんな一節があった。
『男女間の眼力においては、男性が女性の才能を見抜いて育てたという関係性に比べ、女性の眼力によって育てられた男の逸話が圧倒的に多いように思う。
たとえば、ジョルジュ・サンドとフレディリック・ショパンがそうだ。
ショパン自身、自分の音楽的才能に初めから絶対的な自信があるというわけではなかったようだ。
だが、サンドという才能豊かで当時のフランス文壇の寵児だった女性に認められ、「あなたならできる」と母性的な愛情を持って言われ続けることで才能が花開いた。
ガラ・リーナとサルバドール・ダリの例もある。
ガラはダリの才能を信じて疑わなかった。
典型的なのは、エディット・ピアフとイヴ・モンタンのカップルだ。
何かの折に面接試験をしたとき、ピアフは、まだ垢抜けないイヴ・モンタンを一目見て非常なパワーの持ち主だと気づく。
では、ピアフはイヴ・モンタンの中に何を見抜いたのだろうか。
ピアフが目をつけたのは、セクシーさという歌手にとっての根幹だった。
彼女はイヴ・モンタンに対して、「技術はなくても、誰も抗(あらが)えないほどのセクシーさがある」と語っている。
歌にとってそれが最重要であり、練習によってつけられるものではないとわかっていたのだ。
結果として、イヴ・モンタンは世界的シャンソン歌手になる。
ピアフの眼力は正しかったと証明されたわけだ。
その後、ピアフは「もう私の力なんて必要ない」と、イヴ・モンタンのもとから去っていく。』
エジソン、ファーブル、手塚治虫、野口英世等々の天才たちは、幼い頃、普通の子どもとは、どこか変わっていたという。
しかし、その母親たちは一様に、「あなたは今のままでいいのよ」と、まるごと全部を受けれ、肯定し認めていた。
人は、認められ期待されると、はかり知れない力を発揮する。
母親が、その才能の芽を摘んでしまったら、天才たちは世に出なかった。
天才たちの後ろには、常に偉大な母親がいた。
眼力と育てる力を磨きたい。 |
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