2019.8.15 |
|
あり金は全部使え |
|
堀江貴文氏の心に響く言葉より…
子どもの頃、僕たちはイソップ物語の『アリとキリギリス』を聞かされた。
夏のあいだにコツコツ働き、充分な蓄えを準備したアリが生き延び、蓄えずに遊んでいたキリギリスは、飢え死にする。
そういう戒めを込めた物語だ。
冬になって食べ物を乞いにきたキリギリスを、アリが「見たことか」と門前で追い払う。
それを親や教師が、まるで絶対的な善であるかのように、子どもたちに擦り込む。
でも、僕には子どもの頃から疑問だった。
アリたちは、キリギリスを見捨てて、良かったのだろうか?
将来のことなど考えずに、「いま」を思い切り楽しむ人生。
それは、死んでも自業自得と言われるような、いけない選択だったのか?
アリたちだって、キリギリスの音楽を楽しんでいたのではないか?
『アリとキリギリス』は、僕たちが長く洗脳されている、「貯金信仰」の象徴的な話だ。
額に汗して働く人生が最善で、そうしなかった者は飢えても文句は言えないのだ、と説いているが、果たしてそれは真理だろうか。
生きていくために、蓄えは必須ではない。
それどころかむしろ、それは人生を委縮させる。
備えてばかりの人生を送るアリたちが、音楽や娯楽を楽しんだ方が、幸せに決まっている。
いま、文明やテクノロジーが進み、シェアリングエコノミーやブロックチェーンなどテクノロジーの進化によって、中央集権国家の奨励した「貯金信仰」の幻想が暴かれつつある。
誰もが蓄えをしない生き方を取り戻せる、絶好のチャンスだ。
僕はいろんなところで、お金は信用を数値化したものだと述べてきたが、いまお金の信用を裏づけるのは、使うことだ。
貯めているだけで、信用は裏づけされない。
お金を使うことで、あなた自身の価値が膨らみ、新たな生産の循環が生まれるのだ。
お金は信用を数値化した道具に過ぎない。
だが、使えば使うほど、信用の裏づけを強くする、公平で便利な道具でもある。
貯めているだけではいけない。
お金は本来、使うことが目的の道具だ。
あらためて問い直してほしい。
お金を貯めて、何をしたいのか?
もしものときのため?
きたるべき冬に備えて?
どちらも違うだろう。
もしものときに役立つのは、お金で培える知恵や、豊かな経験だ。
「アリとキリギリス」の世界は遠い過去だ。
食べ物がなくなる冬など、もう地上には存在しない。
いつでも腹いっぱい、安くて美味しい食べ物を食べられる。
じゃあなぜ、貯めるのか?
簡単だ。
「貯金信仰」にとらわれているだけだ。
古い時代からの幻想を、少しでも解いてもらうために、僕は本書をまとめた。
あり金は、全部使え!
それが、人としての信用を裏づけ、お金の本質を学ぶための最善策だ。
誤解されてはいけないが、1円残らず使いきり、ボロボロの貧乏人になれと、売れない芸術家みたいなことを言っているわけではない。
あり金をすべて使うつもりで、やるべきことをしよう。
そうすれば、お金に使われ続けるマインドからは、きっと脱出できる。
『あり金は全部使え 貯めるバカほど貧しくなる』マガジンハウス
堀江氏は、何も毎月給料が入るたびに、あり金残らず(借金までして)使ってしまえ、と言っているわけではない。
それは、「リスクをとれ」、「高級なホテルやいい店にも行ってみろ」、「スマホは最高スペックにしろ」、「おしゃれに金を使え」、「チンケな節約をせずおごるときには全部出しをしろ」、「人助けには金を惜しむな」等々のことだ。
つまり、自分への投資を惜しむな、ケチケチするなということだ。
もちろん、目的があって、お金を貯めるということは当然のことだ。
例えば、〇〇円貯めて海外を放浪する、起業のためのタネ銭を貯める、というようなこと。
しかし、たんなる漠然とした老後の不安のためということなら、よした方がいいということ。
そこには何の創造性もないからだ。
現代は、行動してお金を使ってみて、初めて分かることがほとんどだ。
そして、これからの時代は、面白いことや遊びの中から、人の縁がつながったり、ビジネスのアイデアが生まれる。
楽しんだり、面白がったりしない人からは独創的な発想は生まれない。
また、大事なことは、ますます「信用」が大事になるということ。
信用こそがお金になる時代だからだ。
これは、SNSのサロンなどがまさにそれだ。
その人の信用価値にお金を払っている。
起業した人なら分かるが、事業の投資にあり金を全部使うのは当たり前のことだ。
普通は、あり金を全部使ってもまだ全然お金は足りない。
「あり金は全部使え」
信用力を高めるため、ケチケチせずにお金を使いたい。 |
|
|