2019.8.11 |
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個性的であれ |
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明治大学文学部教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
人生後半は、もっともっと、自分のために生きていい。
「仕事」も自分のためにしよう。
好きなものに愛するプリミティブ(原初的)な情熱を取り戻し、心と身体から湧く「勢い」に忠実に生きよう…それを「バカ」というなら、バカこそ最高だ。
それが私の言いたいことです。
ポイントは、ざっくり言えば日々が充実しているかどうか。
充実とは何かといえば、「これさえやっていれば時間があっという間に過ぎてしまう、これについては徹底的に知りたい、極めたいというものを持っているかどうか」ということです。
そういうものが一つでもあれば、日常生活が多少辛くても、自分に折り合いをつけて生きていくことができる。
バカになれるもの、バカになれる時間こそが、後半生の揺らぎやすいアイデンティティの最大の拠りどころとなり、人生を明るく照らす。
そう私は確信しています。
毎日、なんだか元気が出ない。
日々のタスクはこなせても、これでいいのだろうかと心休まらない。
何かに縛られている気がして、息苦しい。
ひとたび、ささいな失敗をしただけで、いわゆる負け組に転落するのではという不安が抜けない…そう感じている人は少なくないでしょう。
それはなぜなのか。
いまの世の中そのものが、私たちを鎖のようなものでがんじがらめに縛り付けているのではないでしょうか。
しかもその鎖は一本だけでなく、私の見るところ、ざっと三本はある。
さすがにそこまで厳重だと、どれほど屈強な心身の持ち主でも萎えてしまうでしょう。
つまり日々が辛いのは、けっして本人のせいだけではないのです。
以下、順番に鎖の正体を見ていきます。
一本目は、もっとも強力な「視線の地獄」です。
仕事でもプライベートでも、常に「他者」からの視線が私たちに向けられています。
昨今は、「SNS疲れ」という言葉をよく聞きます。
FacebookやTwitter、LINEなどで常に誰かとつながっていると、相応の気遣いも必要ですし、ある程度自分をよく見せようと、センスがいいとされる店に行ったり、SNS映えしそうなものを探したりで、見栄を張りたくなります。
いつも背伸びして歩いているような状態で、それが疲れないわけがありません。
フランスの哲学者サルトルは、「地獄とは他人のことだ」と説いています。
他人からの視線を受けることによって、あなたの評価は他人に委ねられ、あなたはあなた自身ではなくなってしまう。
主体的に行動していたのに、他者のまなざしの対象(客体)になります。
他人の視線というものはこの上ない束縛力を持ちます。
私たちの人生を縛る二本目の鎖が、いわゆる「コンプライアンス意識」の高まりです。
とにかく品行方正が第一で、物議をかもすことはいっさい許さないような雰囲気が、社会全体に漂っています。
会社組織内でも、いろいろなルールや手続きが厳格化しているという話をよく聞きます。
不祥事を避けるため、もしくは「〇〇ハラ」を未然に防ぐための措置でしょうが、それによって働きやすくなっているかというと、話は別です。
むしろ戦々恐々となって、委縮を助長させている面もある気がします。
そして三本目の鎖が「個性的であれ」という圧力です。
これまで挙げてきた“視線”による監視、コンプライアンスの束縛と一見矛盾するようですが、個性が称揚されるのには相応の理由があります。
団塊の世代が現役を引退し、価値観も細分化したいま、規格大量生産の時代は終わり、多品種少量生産で利益を上げる必要が出てきました。
単純労働はロボットやAIに取って代わられ、頭脳労働が求められるようになる。
つまり、画一的なフレームにとらわれないモノやサービスを次々と生み出さなければ、個人も組織も淘汰される時代がやってきたのです。
縮小する国内市場だけではなく、海外でも競争しようと思ったらなおさらです。
だから個性が大事だと喧伝されるようになったわけです。
基本的に、私は社会が個々人に個性を求めること自体、あまりいい風潮ではないと考えています。
別の言い方をすれば、個性が誤った意味で解釈され、個人間の「差異」を強調することに価値が置かれすげているように感じます。
例えば仕事上で、新しいアイデアを求められることはよくあります。
そかしそれは日ごろの経験や調査・研究から得られるものであり、その本人が個性的かどうかは別問題でしょう。
王貞治さんやイチローさんの個性的なバッティングフォームは、個性的であろうとしてできたものではありません。
ひたすら技術を追求した結果、人から見ると個性的に見える形になったということです。
個性は、本来結果なのです。
にもかかわらず個性が重視されるとすれば、それは「周囲とはちょっと違う自分を出さなきゃ」という強迫観念を誘発するだけです。
「個性的であれ」というメッセージも、それに感化されて生まれた「個性的といわれたい」という欲求も、実は息苦しさをもたらしているのではないでしょうか。
その証左が「バイトテロ」や「バカッター」です。
飲食店やコンビニのアルバイト店員がゴミ箱から取り出した食材を調理したり、冷蔵庫に入ってみせる動画をネットに投稿したというニュースに、日本の将来を憂う人も少なくないでしょう。
しかしこれも、「個性的であれ」を曲解した結果かもしれません。
『バカになれ 50歳から人生に勢いを取り戻す (朝日新書)』朝日新書
“視線”による監視、コンプライアンスの束縛がありながら、「個性的である」ことは非常に難しい。
それを、齋藤氏は、「ブレーキを踏みながらサイドブレーキを引き上げ、なおかつ未踏の道へ向けてアクセルを踏み込むような、バラバラの動き」だという。
だから、多くの人たちにストレスがかかり、そのはけ口として、「キレる大人」や「暴走老人」が増えたりする。
それを齋藤氏は、『自分が優位に立っている状況で、ここぞとばかり鬱屈した全エネルギーを注ぎ込んで相手を罵倒する。そこに快感を見出しているわけです』
そして、『「私は本当は偉いんだ」「もっとリスペクトされていいはず」「強いところを見せてやろう」というサイクルは、他人から見たら滑稽そのものです』という。
他人に迷惑をかけたり、嫌な気持ちにさせる人は、個性的でもユニークでもなんでもない。
周りから疎(うと)まれ、嫌われるだけの最低の人間だ。
真の意味で個性的である人は、子どものような情熱と好奇心があり、いつも上機嫌で、ときめいている人であり、人生を楽しんでいる人だ。
人生を楽しんでいる人は、苦労や失敗や嫌なことさえ楽しんでしまう。
そして、まわりの人も楽しくさせる。
少し、バカになって自分の枠をはずし…
真の意味で個性的な人を目指したい。 |
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