2019.7.5 |
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与えられた役割を懸命に演じる |
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
幸せというものは、多くを持つことによって得られるのではなしに、今持っているもので満足することで得られるものです。
今あるがままの状態で幸せはつくれるんです。
貧乏であれば幸福な貧乏人になればいいわけで、それを初めから貧乏はダメだと決めつけ、金持ちになろうと焦るから不幸は始まる。
神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。
ああしてください、こうしてくださいと請求書をつきつけるような祈りを、私は「請求書的祈り」と名づけています。
本物の宗教心というのは、「私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました」という「領収書的祈り」なんです。
弱い者は弱い者の役割を果たし、強い者は強い者の役割を果たし、ともに助け合って生きていくのが人間社会なんです。
今の日本の平等主義は、個々の役割をわからなくし、自分の生き方を見えにくくしているのではないでしょうか。
自分の努力のほかに、大勢の縁の下の力や支えがあってこそ成功したんだという感謝の気持ちがない。
失敗した人、成功できなかった下積みの人たちのことを、あれは努力が足りないからなんだと蔑(さげす)む。
これはおかしいんじゃないでしょうか。
二歩後退一歩前進。
何歩後退しても、そこからまた一歩進めばいい。
一歩しか進めないなら、そんなに急いで歩く必要はない。
『千年語録 次代に伝えたい珠玉の名言集』小学館
ひろさちや氏の筆名は、ギリシャ語「愛する」(フィロ)と、サンスクリット語「真理」(サティヤ)から命名したという。
舞台で言うなら、誰もかれも主役になれる訳ではない。
主役は一人しかいない。
だが、主役を支えるわき役がいて、通行人もいれば、音楽の担当もいて、衣装係もいて、幕引きもいる。
それぞれが、一人ひとりの役割を演じるからこそ、舞台は成立する。
わき役の人は、わき役という役割を、今生で与えられ、通行人の人は、通行人の役を与えらた。
今生において、その役割をまっとうできない人は、次回、役割が上がることはない。
だから、与えられた役割を真剣に死に物狂いで演じる。
それが、一瞬一瞬を懸命に生きるということであり、「置かれた場所で咲く」ということ。
与えられた役割を懸命に演じたい。 |
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