2019.6.28 |
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批判者ではなく、感じのいい人に |
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精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…
「批判の好きな人」、これは私も大の苦手だ。
こういう人にとっては、すべての他人と世の中のできごとは批判の対象になるらしく、口を開けば何かの批判をしている。
政治、経済、芸術から同僚の仕事振り、異性、家庭、食べ物まで、批判の対象分野は広い。
話題を向けさえすれば、たちまちのうちに批判してくれる。
しかし、私はこういう人といっしょに食事をしたくないし、なるべくならともに時間をすごすのはかんべんしてもらいたい。
聞き苦しく、息苦しい。
イヤなこと、嫌いなことだらけでは、人生がつまらなくなる。
だいいち、これだけ批判が上手であれば、もちろん私も批判の対象に入っているにちがいない。
きっと、他のところでは私の批判をしているのだろう。
気の弱い私は、こういう人と親しくおつき合い願たいとは思わない。
批判もときには必要だが、批判屋さんの批判にはだれも耳を傾けないから意味がない。
聞いてもらえない批判など、不快な騒音でしかないではないか。
これとは逆に、他人のいいところ、ものごとのよい面を見ている人は、いっしょにいて気持ちがいい。
おしゃべりも楽しく、食事をいっしょにしても食欲が進む。
こういう人がたまに何かを批判すると、ピリッとひきしまる。
めったに怒ったり、悪いことをいわないだけに、相手はおやっと思い、考えさせられるのだ。
「これは心して聞かなければ」と思わせる。
批判屋さんの批判が「ああ、またいっているよ、うるさいなあ」と耳に栓をされるのとは大ちがいだ。
甘味の中に、ちょっとだけ塩を入れると、甘味が引きたつ。
これと同じではないだろうか。
塩も体には必要だが、塩ばかりなめさせられたのでは、たまったものではない。
また、逆に、甘いばかりもダメだ。
「感じのいい人」は、ものごとの悪い面にも目をつぶらず、ちゃんと見ている。
しかし、ふだんはいいほうに注目し、全面に押し出す。
そしてときにチラッと意見をいって、ピリッとひきしめる。
『ほがらかに品よく生きる (新講社ワイド新書)』
斎藤氏は、本書の中で、公(おおやけ)の中で批判されたときの対応についてこう語っている。
『私が精神病院協会の会長をしていたときのことだ。
おおぜいの会員が集まった席で、先代の会長からこう批判されたことがある。
「斎藤会長は指導力が弱すぎる。政府への対応も弱い」
これに対して私は、「かねがね先生のことは大久保彦左衛門だと思っていました。実にいいことをいっていただいた。ありがとうございました。」
すると、やがて私に同情してくれる人がたくさんあらわれたのである。
先代の会長も、もちろん、協会のためを思って発言したのだろうが、個人攻撃の形になってしまったので、会員の同情は私のほうに集まったのだ。
もしも、私が自分への批判を素直に受けとめず、彼を批判し返していたら、みんなの反応はどうだっただろう。
「先代の会長のいうことはもっともだ」という雰囲気になっていたかもしれない。
自分への批判を「そのとおりでございます」と受けとめるのは、みんなの前で自分の弱点を認めることであり、なかなか勇気のいることかもしれない。
しかし、自ら潔く負ける姿勢をとると状況は逆転する。
その場では批判され、評価が低いように見えても、多くの人が味方についてくれる。』
不平不満をいい、批判をしたり悪口をいうような人を避けて、一緒にならないことは、自分の精神を保つために一番効果的なやり方だ。
しかしながら、そうであっても、もし一緒になってしまったときは、「自分を批判する人をほめる」こと。
批判されてカーっとなってしまったときは、もし、自分が言い返したり、もっと批判したらどうなるか、を心の中でシミュレーションしてみる。
すると、あまりいい結果は得られないことはわかる。
心の広い人、余裕のある人と見られたいなら、感情的に怒ったり批判した方が負けだ。
批判者ではなく、感じのいい人をめざしたい。 |
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