2019.5.20 |
|
遊戯三昧に生きる |
|
無能唱元氏の心に響く言葉より…
「普通に暮らしていることって、すっごく幸せなんだ!」
ある日、19歳になったばかりの少女がそう言うのを聞いて、ああ、この「気づき」こそ、「サトリ」というものなんだなあ、と私は一つの感動とともに思い入りました。
この少女の「サトリ」は、座禅修行30年を積んだ禅僧のそれと比べても、いささかも遜色のあるものではありません。
「無味(むみ)、無為(むい)、無事(ぶじ)」の中に、生の喜びを見いだすことは、きわめて稀れであっても、凡人にとっても可能なことなのです。
ただ、そのあとが続かないのですが。
凡人にとってのこの喜びは、しばらくほうっておくと、じきに色あせ、退屈によって、かき消されてしまうのです。
これは凡人ならずとも、賢人であっても同じことです。
禅僧には書画をよくする人物がよくいますが、これも悟りすましているばかりでは退屈で、そのひまつぶしを目的として、一つの芸の達者になった人なのではないでしょうか。
陽だまりの中で、数匹の猫がじゃれあって遊んでいます。
子猫はとても遊び好きで、ときには人間にさえ、一緒に遊んでくれとせがむことがあります。
これは、エネルギーが有り余っているからで、それを遊びで発散しないではいられないからなのです。
ところが、同じ陽だまりの中でも、親猫はうとうとと眠っており、めったに眼を開こうとはしません。
これは「若さ」というエネルギーをもうなくしているからなのです。
これから考えられることは、「若さ」というエネルギーと、「遊ぶ」という意欲は相関関係にあるということです。
猫と同様に、われわれ人間も、人生に「遊び」とその楽しみを求めつつあるかぎり、「若さ」をいつもまでも失わないで済むのではないでしょうか。
禅家は、「人生は遊戯三昧(ゆげざんまい)をもって生きよ」と説きます。
これは、「人生そのものを、ゲームとして、それを楽しめ」と言っているのです。
しかし、この遊びとは、どうもパチンコや競馬、ナイトクラブ、カラオケなどの、いわゆる、娯楽施設における遊びとは、ややそのおもむきを異(こと)にしているようです。
ではどの点を異にしているかと、おおまかな分け方ですが、娯楽型の遊びはおおむね消費的であり、遊戯三昧の方は多分に創作的、あるいは生産的であるのです。
たとえば、音楽の鑑賞は消費的であり、作曲および演奏は生産的であるように…。
後者で特に大切なことは、そこには「自己主張」があり、「自己表現」がある、ということです。
人間は生活の上で、自己表現がなされるとき、自己充足の満足を得ることができます。
そして、この満足を得ることによって、生きる喜びを、心の底から覚えるのです。
しかし、このように遊戯三昧に生きるには、人間にはさまざまな制約があります。
その最も一般的な制約とは、経済的な問題です。
人間は好きなように自由に生きるには、自由に使える十分な資金を必要とします。
チャップリンは、「人間にとって必要なのは、希望と勇気と少しばかりのお金である」と言っております。
しかし、あらゆる制約から解放されて、遊戯三昧に生きるには、「少しばかりのお金」では、どうも足りないようです。
『小さなサトリ―ミニ・エンライトメントが人生を変える』河出書房新書
藤原東演住職は「遊戯三昧」についてこう語る。
『「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。
我を忘れて、無心に遊んでみないか。
仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。
仕事は成果をあげなくてはならない。
「何かのため」という意味づけが不可欠だ。
ところが、遊びは何かのためにという目的がない。
その成功とか失敗なんか関係がない。
成果など計算したら、それは遊びではない。
人の評価も気にする必要がない。
ただやることが面白い、楽しいからやるのである』(禅、「あたま」の整理/知的生きかた文庫)より
あらゆることを遊び心をもってやる、というのは、ゲームを楽しむ気持ちでやるということ。
ゲームの楽しみとは、たとえばゴルフにしてもすべてがうまくいくから楽しいのではない。
思い通りのところに飛ばない、思い通りに打てない、トラブルになる、くやしい、そんなことすべてを含めて、「思い通りにいかない」ことも楽しいのだ。
「人生とは何ですか」との問いに、今東光氏はこう答えた。
『人生というのは冥土(めいど)までの暇(ひま)つぶしだよ』
遊戯三昧に生きることができたら最高だ。 |
|
|