2019.4.14 |
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劣化するオッサン社会の処方箋 |
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山口周氏の心に響く言葉より…
「オッサン」の定義を明確にしておきたいと思います。
「オッサン」という用語は、単に年代と性別という人口動態的な要素で規定される人々の一群ではなく、ある種の行動様式・思考様式を持った「特定の人物像」として定義される、ということです。
その「特定の人物像」とは次のようなものです。
1. 古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
2. 過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
3. 階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
4. よそ者や異質なものに不寛容で、排他的
お読みいただければすぐにわかるとおり、中高年の男性として分類される人であっても、この「人物像」に該当しない人は数多く存在します。
これを逆にいえば、いわゆる「オジサン」に該当しない年代の人であっても「オッサン化」している人がいくらでもみつけられるということでもあります。
皆さんもよくご存知のとおり、昨今の日本では、50歳を超えるような、いわゆる「いい年をしたオッサン」による不祥事が後を絶ちません。
例えば…
●日大アメフト部監督による暴行事件発覚後の雲隠れ
●大手メーカーによる度重なる偽装・粉飾・改竄・隠蔽
●日本ボクシング連盟会長による助成金の不正流用や暴力団との交際
これらの社会的事件のほかにも、「オッサンの劣化」を示す小事件は枚挙にいとまがありません。
例えば、駅や空港、病院などの公共の場で、ささいなことに激昂して暴れたり騒いだりするオッサンが後を絶たない。
民営鉄道協会が発表している平成27年度に発生した駅係員・乗務員への暴力行為に関する調査集計結果によると、加害者の年齢構成は、60代以上が188件(23.8%)と最多で、これに50代による153件(19.3%)が続いている一方、一般に感情のコントロールが上手にできないと考えられがちな「若いもん」、つまり20代以下の数値は127件(16.0%)となっていて全年代でもっとも少ない。
本来、社会常識やマナーの模範となるべき中高年が、些細なことで激昂して暴れているわけで、まったくこの世代の人たち人間的成熟はどうなっているのだろうかと考えさせられます。
なぜオッサンは劣化したのか…
現代の50代・60代の「オッサン」たちは、「大きなモノガタリ」の喪失以前に社会適応してしまった「最後の世代」だという点です。
「大きなモノガタリ」つまり「いい学校を卒業して大企業に就職すれば、一生豊かで幸福に暮らせる」という昭和後期の幻想の形式とともにキャリアの階段を上り、「大きなモノガタリ」の終焉とともに、社会の表舞台から退いていった、ということです。
つまり「会社や社会が示すシステムに乗っかってさえいれば、豊かで幸福な人生が送れる」という幻想のなかで過ごしてきたのです。
これは人格形成に決定的な影響を与えたと思います。
貴重な20代を、バブル景気に浮かれる世の中で「会社の言うとおりにやっていれば金持ちになって別荘くらいは持てるさ」という気分のなかで過ごしてしまったことは不幸だったとしか言いようがありません。
「大きなモノガタリ」の喪失前に20代という「社会や人生に向き合う基本態度=人格のOSを確立する重要な時期」を過ごしたのちに、社会からそれを反故(ほご)にされた世代なのだということを考えれば、彼らが社会や会社に対して「約束が違う」という恨みを抱えたとしてもおかしくはありません。
加えて指摘しておきたいのが、2018年時点で50代・60代となっているオッサンたちは、70年代に絶滅した「教養世代」と、90年以降に勃興した「実学世代」のはざまに発生した「知的真空の時代」に若手時代を過ごしてしまった、という点です。
教養世代というのも奇体な言葉ですが、平たくいえば「教養の習得に価値を置く世代」ということになるでしょうか。
70年代の半ばから80年代にかけ、学生はどんどんバカになっていきます。
その現象を象徴的に示す言葉として、当時マスコミで盛んに揶揄されたのが「大学のレジャーランド化」という表現でした。
ここにきて「教養世代」は絶滅し、90年代以降の「実学世代」の黎明までの10年間を「知的真空」の状況が継続することになります。
「教養世代」に対置される「実学世代」というのは、「実学の習得に価値を置く世代」ということになります。
平たくいえば経営学や会計などの「手っ取り早く年収を上げるための学問」を重視する世代ということです。
このような価値観が学生のあいだで支配的になった理由は容易に想像できます。
ソコソコの大学を出てソコソコの会社に入ってソコソコに頑張っていればお金持ちになって幸せになる、という昭和の「大きなモノガタリ」の喪失されたあと、社会で支配的になった「新しいモノガタリ」が「グローバル資本主義」でした。
あらゆる国のあらゆる産業が世界中の競争相手と戦い、ごく一部の強者だけが勝ち残り、残りすべては敗者となって社会の底辺に沈んでいく、という過酷な「モノガタリ」です。
バブル景気の崩壊と今日まで連綿と続く日本企業の経営の迷走状態が始まり、「大きなモノガタリ」は唐突に終幕となり、「グローバル資本主義下における弱肉強食の世界」という「新しいモノガタリ」が始まります。
この「新しいモノガタリ」が提示する新しいシステムに適応しようとした人々が、「実学世代」ということになります。
実学世代では、経営学の知識と英語とプレゼンテーションスキルがもっとも重要なリテラシーとなり、人生をいかにショートカットして効率的に年収を上げるかというゲームに、いわゆる「カツマー」(勝間和代にあこがれる人のこと・年収をあげる人)などと揶揄(やゆ)される類のナイーブな人々が大挙して参加し、そしてカモにされました。
60年代に学生生活を送った「教養世代」はすでにほとんどが引退し、社会システムの上層部では「知的真空世代」が重職を独占し、その下を「実学世代」がかためるという構造になっています。
これはつまり「古いモノガタリに適応した人」が、「新しいモノガタリ」を前提にした社会の上層部に居座って指示命令しながら、「新しいモノガタリに適応した人」が、中層から下層でその指示命令を実行部隊としてこなしているという歪んだ構造になっている、ということです。
この状況を別の角度から照射すると、「アートにもサイエンスにも弱いオッサンたち」という問題が浮かび上がってきます。
「教養世代→知的真空世代→実学世代」という推移を考察してみれば、「教養」が「アート」に、「実学」が「サイエンス」に対応する関係がすぐに読み取れます。
「教養」はそのまま英語に訳せば「リベラルアート」となります。
ここでいう「アート」には、いわゆる「美術」以上のもの、つまり、リベラルアート=人をして自由に思考させる学問、が含まれているわけです。
『劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか (光文社新書)』
山口周氏は、現代は、劣化したオッサンたちがリーダーになっている時代だという。
組織のトップに一度でも三流(劣化したオッサン)を据えてしまうと、自浄作用は期待できない。
なぜなら、それは、日大アメフト部やや日本ボクシング連盟などを見ればよくわかる。
劣化したオッサンのまわりには、それを忖度(そんたく)するさらに劣化したオッサンが集まるからだ。
そのような状況に若者が対抗するには、「エグジット」という考え方が必要だという。
エグジットとは「出口」のことだが、権力者の影響下から脱出するということ。
昨今、「転職」や「副業」ということが盛んに言われるが、このエグジットの一環だと考えればよく分かる。
旧態依然とした変化できない「劣化したオッサン」の組織から決別し、若くて斬新な組織に移れば、今まで悩んできたことは何だったのかと思うほど、新しいことに挑戦できることは多い。
もう一つの対抗手段は「オピニオン」。
オピニオンとは、おかしいと思うことについてはおかしいと意見をすること。
一連の不祥事を起こした企業に身を置きながら、オピニオンもエグジットもしないということは、これらの不祥事に自分も加担したと同じことになるからだ。
そして、この「オピニオン」も「エグジット」も自分のキャリアが危険にさらされるからやりたくない、と思っている人は多い。
山口氏は、そのためには、今の組織だけでなく外の世界に出ても通用する汎用性の高いスキルや知識という「人的資本」を身につけ、信用や評判といった「社会資本」を厚くすることで、自分の「モビリティ」を高めることが必要だという。
「モビリティ」とは、仮に現在属している組織を抜けたとしても、今と同様の生活水準を維持できる能力のこと。
どんな場所に移っても、自分の正味現在価値が変わらないということ。
「劣化するオッサン社会の処方箋」
「オピニオン」や「エグジット」を使えるよう、自分の「モビリティ」の能力を高められる人でありたい。 |
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