2019.4.2 |
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すべては「好き嫌い」から始まる |
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楠木健氏の心に響く言葉より…
僕は競争戦略という分野で仕事をしている。
ありていに言って「競争の中である商売が儲かったり儲からなかったりする論理は何か」を考えるという仕事である。
商売である以上、最終的には「業績」という良し悪し基準に行き着く。
しかし、そこに至る道筋である戦略は、かなりの程度まで好き嫌いの問題だ。
戦略とは、一言で言えば、競合他社との違いをつくるということ。
その時点でみんなが「良い」と思っていることをやるだけでは、他社と同じになってしまい、戦略にはならない。
例えば、「ファストファッション」を提供するZARAと「ライフウェア」を標榜(ひょうぼう)するユニクロ。
同じ業界ではあるが、それぞれに「良い」と考えることが違う。
ZARAにとって良いこと(例えばショートサイクルの多品種少量生産)がユニクロにとっては悪手になる。
逆もまた真なり、だ。
当事者が心底好きで面白いと思っていることを突き詰めた結果としてユニークな戦略が生まれる。
これこそが商売の大原則。
商売の基点になるのは自由意志であり、戦略は経営者による意思表明に等しい。
にもかかわらず、良し悪しの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)は、ビジネスの世界でとりわけ目につく。
本来は自由意志、好き嫌いの次元にあるはずの意思決定や行動が、安易な良し悪し基準で切り捨てられる。
逆に「ベスト・プラクティス」の名の下にいかにも正しいことのように煽(あお)られたりする。
商売に限らず、世の中の9割は好き嫌いで成り立っているのが本当のところだと僕は思う。
巨人か阪神か、ビートルズかストーンズか、レノンかマッカートニーか、天丼かかつ丼(もちろん同じ意味で親子丼でもかまわない)、仕事にしても生活にしても、大半のことがそれとまったく同じ意味で好き嫌いの問題だ。
どちらでもいい。
優劣や上下はない。
好きな方にすればよい。
天丼もかつ丼も親子丼もそれなりに美味しい。
それでも好き嫌いはある。
だから好きなものを選ぶ。
考えてみれば贅沢な話である。
千年まえであれば、好き嫌いどころではなかった。
普通の人々は、生存のために「良い」ことをし、「悪い」ことは排除しなければならなかった。
良し悪し族の難点は、ともすれば教条主義に傾くことにある。
良し悪しを見聞きするものに杓子定規に適用して価値判断をする。
一方の好き嫌いは教養に深く関わっている。
教条と教養、一字違いだが両者は対極にある。
『すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法』文藝春秋
楠木氏は、本書の中で「無努力主義」についてこう語る。
『僕のこれまでの経験でいえば、「努力しなきゃ…」と思ったことで、仕事として上手くいったことはただの一度もない。
「努力しなきゃ…」と思った時点で、そもそも向いていないのである。
ポイントは、それが「努力」かどうかは当事者の主観的認知の問題だということだ。
だとしたら、「本人がそれを努力だとは思っていない」、この状態に持ち込むしかない…。
これが試行錯誤の末に行き着いた結論である。
すなわち「努力の娯楽化」。
客観的に見れば大変な努力投入を続けている。
しかし当の本人はそれが理屈抜きに好きなので、主観的にはまったく努力だとは思っていない。
これが最強の状態だ。
趣味の世界では誰しも多かれ少なかれ「努力の娯楽化」を経験したことがあるはずだ』
政治でも哲学でも、経済でも経営でも、最後は好き嫌いで決まる。
どんなにそれが正しかろうが、間違っていようが、好き嫌いという感性によってしか人間は動かない。
陽明学の王陽明はそれを、「天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず」と言った。
世界がどのように変わっていこうと、つきつめればすべて、「喜怒哀楽」の四つの感情からしか物事は進まない。
いかに喜び、いかに憤り、いかに哀しみ、いかに楽しむかといことが、人生のすべてだ。
また、日本の森林学の大家で、東京帝国大学で教鞭をとり、独特の蓄財法で財を成した本田静六博士は、「仕事の道楽化」を唱えている。
『人生の最大幸福はその職業の道楽化にある。
富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。
職業の道楽化とは、学者のいう職業の芸術化、趣味化、遊戯化、スポーツ化もしくは享楽(きょうらく)化、であって、私はこれを手っ取り早く道楽化と称する。
名人と仰がれる画家、彫刻家、音楽家、作家などが、その職業を苦労としないで、楽しみに道楽としてやっているのと同様に、すべての人がおのおのその職業を、その仕事を道楽にするということである。』(本田静六 成功するために必要なシンプルな話をしよう/知的生き方文庫)より
『すべては「好き嫌い」から始まる』
仕事の道楽化を果たしたい。 |
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