2019.2.27 |
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知らない誰かへの贈り物のように情報発信をする |
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堀正岳氏の心に響く言葉より…
最初のひらめきは、どんな情報がバズるのか、あらかじめ知ることは困難だという点です。
あらかじめわかっているならば誰もがそれについて発信するわけですから、書き手はその記事に人気が出るかどうかの確信もないまま、先に情報をウェブ上に置くことが必要なのです。
また、ウェブにおけるコンテンツの多くは無料で、読者を得る機会という意味では公平性があります。
だからこそギブ&テイクを考えすぎて出し惜しみしをしていては、他の出し惜しみをしない人に機会を奪われてしまいます。
情報発信は誰に求められずともギブからか始めることだということが理解できたわけです。
もう一つのひらめきは、情報は誰かに発見されることによって価値が生まれるという点でした。
サーバー上に寂しく存在するデータのままではそれは存在しないも同然で、誰かがそれを発見し、他の誰かにシェアすることによって情報の価値は後付けで決まってゆくという力学が、実感として感じられたのです。
たった一つの記事から世界が変わった事例も、数多く存在するわけです。
これらのひらめきをまとめると「知らない誰かへの贈り物のように情報発信をすること」という指針がみえてきます。
そのへんに転がっているありきたりなものを贈られても、それを押し付けられた側は気まずい雰囲気になるだけです。
むしろ、あなたの個人的な「知的な積み上げ」が生み出した新しい情報を、あなただけに見えている世界を、親しい人への手紙がそうであるように、求められる前に先に発信することによって情報発信は贈り物になります。
これは実際的な利点のある戦略でもあります。
ジャーナリストのクレイ・シャーキーは『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』のなかで、従来の「作家」や「ジャーナリスト」といった肩書きが、出版できる人や取材対象へのアクセスが許された人々が少数であるという前提の上に成り立っているかりそめのものであることを指摘しています。
出版の仕組みがブログやソーシャルメディアといった形で普遍化し、取材方法が多様化すれば、誰にでも作家やジャーナリスト的な役割を演ずることが可能になり、その情報の価値は内容によって評価されることになるわけです。
このように情報の発信に対する参入障壁が下がっている状態を、情報や出版の「民主化」などと言ったりします。
自分の発見や考えを発信することを通して、たった一人の知的生活の成果を世に問うことが可能になっているのです。
しかしまずは、贈り物のように、見返りを期待することなくギブするところから始めなければいけません。
それが運良く誰かのもとに新たな刺激として伝わるなら、知的な積み上げは、贈り物のような発信を通して一つの閉じた円環のようになり、どこかの誰かの、次の積み上げに役だっていきます。
また、その発信に対する応答が結果的に想像もしなかった場所から帰ってきてあなたを驚かせることもあるでしょう。
これほど痛快なことも、なかなかないと思いませんか。
『知的生活の設計―――「10年後の自分」を支える83の戦略』KADOKAWA
堀氏は、「知的生活」には記録すること自体が価値になるという。
知的な積み上げだ。
つまり、本だったら月に何冊読んだか、それを記録しSNSでアウトプットする。
音楽だったら、映画だったら、とそれらの情報を積み上げていく。
数字と量を意識することで、5年、10年たって、長い目でみて、自分がどれだけ成長したかを知るということ。
現代は、あらゆるものが「ライフログ」という、生活をデジタルデータとして記録することが盛んだ。
体重や歩数の記録、映像の記録など、最近では、ブログや家計簿アプリなどもライフログと呼ばれる。
つまり、日々の行動記録(履歴)のことだ。
生活や生き方を数字として「見える化」することは、自分を客観的に知るための大事なツールだ。
「知らない誰かへの贈り物のように情報発信をする」
情報発信は、「キュレーション」という集めた情報をつなぎ合わせて、別の新しい価値をもたらせて共有することでもある。
ケチケチせずに、自分の知り得た情報を発信し続けたい。 |
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