2019.1.30 |
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学校の「当たり前」をやめた |
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千代田区立麹町中学校長、工藤勇一氏の心に響く言葉より…
現在、私は千代田区立麹町中学校の校長を務めており、今年で5年目となります。
麹町中は、多くの日本の中学校からみれば、少し「特殊」な学校です。
皇居に近く、学区内には国会議事堂や最高裁判所、首相官邸、衆議院、参議院の議員会館などもあります。
今でこそ、地元の生徒が通う学校ですが、かつては、学区外の全都から越境入学した生徒達が半数以上を占めていて、「番町小→麹町中→日比谷高→東京大学」といった名門校の一つに数えられたこともありました。
卒業生には錚々(そうそう)たる方々がいます。
学校の施設・設備も相当なものです。
見学に来られた方々がため息をつくような素晴らしいホールなどもあります。
たくさんの外部指導員の支援を得る予算も十分にあります。
でも、だからといって、麹町中で取り組んでいることのすべてが、この場所、この施設・設備がなければできないということではありません。
注目されている取り組みの中には、「服装頭髪指導を行わない」「宿題を出さない」「中間・期末テストの全廃」「固定担任制の廃止」などがありますが、初めて聞く方は、おそらくびっくりされると思います。
その他、現在進行中の麹町中学校の取り組みも、学校関係者の中には、「認めたくない」という方がいるかもしれません。
しかし、これらは、昨日や今日、思いついたことではありません。
山形で教員を始め、その後、東京都の教員となり、目黒区、東京都、新宿区の教育委員会で指導主事や管理職として経験してきた中で、ずっと考え続けてきたことです。
「目的と手段を取り違えない」
「上位目標を忘れない」
「自律のための教育を大切にする」
こうしたいくつかの基本的な考え方を大切にして、多くの学校で「当たり前」とされてきたことについて、見直しを続けてきました。
それはある意味、私にとっても、自分自身の教師としての習慣や考え方をそぎ取る作業でもありました。
今、日本の学校で行われている教育活動の多くは、学校が担うべき、「本来の目的」を見失っているように感じます。
加えて、その事実に多くの教育関係者が気付いていないことに驚きます。
多くの学校では日々宿題が出され、生徒たちは定期考査に向けて、学習に励んでいます。
教師は学習指導要領に基づき、一人ひとりの学力を伸ばそうと、手厚い指導を行っています。
教室には「みんな仲良く」などの目標が掲げられ、学級担任の指導の下、「和」を重んじた学級経営が行われています。
日本中どこでも見られる光景ですし、私もかつてはこういうことを目指していました。
しかし、私はこれら当たり前に見えることでさえ、本当に意味があるのだろうかと考えるようになったのです。
学校はなんのためにあるのか…。
学校は子どもたちが、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。
そのためには、子どもたちには「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身に付けさせていく必要があります。
社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。
今、日本の学校は自立を育むことと、真逆のことをしてしまっているように感じます。
手取り足取り丁寧に教え、壁に当たればすぐに手を差しのべる。
けんかや対立が起きれば、担任が仲裁に入り、仲直りまで仲介する。
そうして手厚く育てられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できず、「自律」できないまま、大人になっていきます。
そして、大人になってからも、何か壁にぶつかると「会社が悪い」「国が悪い」と誰かのせいにしてしまうのです。
将来に夢や希望を持てない子どもが多いという調査結果があります。
理想と現実のギャップに嘆き、自暴自棄になっている若者もいます。
景気が良いと言われていますが、雇用は不安定で、労働生産性は低く、経済的格差も広がっています。
そうした状況を招いていることの一因に、学校教育の根本的な問題があると私は考えています。
学校は、人が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という本来の目的を見失い、そこで行われている教育活動と実社会との間に乖離(かいり)が起きているのです。
なぜ、そのようになってしまうのでしょうか。
一言で表せば、「手段が目的化」してしまっているからだと私は思います。
例えば、国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。
その実、学習指導要領を読み込んでいるわけでもなく、教科書に従って授業をしている教員が大半のように感じます。
つまり、子どもたちに必要な力を付けるための「手段」であるはずの学習指導要領や教科書が、「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのです。
目的と手段を見直し、学校をリ・デザインする…そんな思いで、私はこの5年間、学校づくりを進めてきました。
一見、画期的と思われる、宿題や定期考査の全廃も、長い教員経験の中で「目的」の本質を見極め、適切な「手段」を考え抜いてきた結果にすぎないと思っています。
「そんなことが可能なのか」と思う方もいるでしょう。
実際、学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあります。
しかし、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけです。
校長が覚悟を持って、自らの学校が置かれた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができれば、いくらでも工夫できるものです。
多くの学校関係者が、そうした視点で日々の教育に当たれば、学校が変わり、ひいては社会も変わっていく可能性があると私は本気で思っています。
『学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―』時事通信社
インターネットをはじめとするデジタル革命によって、様々な業界で大変革が起きている。
そして、今ある多くの仕事や職業がなくなろうとしている。
日本は、平成元年、世界の時価総額ランキング上位50社のうち32社が入っていた。
しかし、30年経った今は、たった1社しか入っていない。
GAFAと呼ばれる、Google、Apple、Facebook、Amazonをはじめとする多くの新興企業が台頭してきたからだ。
日本ではこの平成30年の間、世界で活躍する企業が一社も育たなかったということだ。
その大きな原因の一つは、日本の教育にあると言われている。
覚えること、記憶することを主とした教育は、創造性や独創性や自主性を育てなかった。
つまり、「自律」するための教育がおろそかにされてきたのだ。
何かを変えようとすると決まって、旧勢力から反対される。
それを変えていくには、すさまじいエネルギーと覚悟がいる。
そして、多くの人は、その壁の前で撃沈し、昨日と同じ今日を続けることになる。
『学校の「当たり前」をやめた』
自分も社会も組織において…
「当たり前」をやめる覚悟を持てる人でありたい。 |
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