2018.12.30 |
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お任せして生きる |
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元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…
年寄の子は、えてして心配性と言われますが、私が女学生の頃、すでに六十歳を超えていた母が、雨の降りそうにない日にも、よく傘を持たせてくれたものです。
乗り物に乗る時には十分な時間的余裕を持って出かけ、降りる時には一つ手前の駅から準備しはじめるように。
横断歩道を渡る時、青だったら一度赤に変わるのを待って、次の青で渡りなさい。
そうすれば途中で赤になることはないから。
一事が万事、このようでした。
このように育てられたためかどうか、自分でも心配性だと思うことがあります。
信仰が薄いのでしょう。
聖書の中に「思い煩うな」と書いてあることも知っています。
野の百合(ゆり)、空の鳥を養い給い、私たちの髪の毛一本にまで心を注いでくださる父なる神がましますこともわかっています。
しかしながら、昔から私には、うんと心配したり、最悪の事態を想定すると、その心配が来なかったり軽くて済む、という迷信めいた思いがあります。
それは多分、たくさん心配しておけば、実際に来た時にも「思った通り」とあきらめられるし、来なかったら、または思ったほどでもなかったら「もうけもの」をしたような気になるからかもしれません。
信仰が薄いと叱られそうですけれども、キリスト様にしてみれば、そのような心配性の人間が、迷いに迷ったあげくの果てに「おまかせします」と申し上げた時のほうが、全然心配しようともしない人が事も無げに「お願いします」と言った時よりも、「よし引き受けた。心配するな」とおっしゃり甲斐(がい)があるのではなかろうかなどと、勝手に自分を慰めています。
キリストは、とても人間的な心をもっていてくださいます。
頼られてうれしいのは人の常です。
問題は、どのあたりで心配をやめて、おまかせするかであり、またおまかせした結果については、「とやかく申しません」という一札(いっさつ)をきちんと入れる覚悟を持つということです。
「どうしてこんなヘマをなさったのだろう。私でも、もうちょっとスマートに片付けるのに」と神のなさることに思う時があります。
ところが後になってみると「すべては、その時に適(かな)って美しい」のです。
天が下のすべてのみわざには神の時があり、「人は神のなされるわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」のです。
だからこそ、安心して心配していいのであり、思い煩いながら、今日もおまかせして生きていられるのだと思うのですが、これは矛盾した考え方なのでしょうか。
『どんな時でも人は笑顔になれる』PHP研究所
小林正観さんのこんな話がある。(豊かな心で豊かな暮らし)より
『たまたま一ヶ月ほどの間に、何人かの人から同じ質問を受けました。
「私に向いている職業は、どんなものでしょうか。正観さん、教えてください」というものでした。
もちろん、その数人は現在無職であるということでした。
私の答えはすべての人に対して同じでした。
「自分で好きな仕事、嫌いな仕事とより分けているうちは、宇宙さんも神も仏も味方をしないような気がします」と言いました。
自分にまわってきたことをやる、やる羽目になったことをやる、たまたまなにかの縁で声をかけられたり、頼まれたりしたらそれをやる。
そういうふうに考えていったら、職業はなんでもいいのです。
向き不向きというのがあるとは思えません。
向き不向きと言うのは、もしかすると自分の奢り、高ぶりなのかもしれません。
どんな仕事でも、誠実に真面目にやる。
真摯(しんし)に取り組む。
それに尽きるのではないでしょうか。
楽しい仕事というのがあるわけではないのです。
そんな仕事にいきなり恵まれてる人は、世の中にいないと思います。
好きだ、嫌いだと言うのではなくて、やる羽目になったことを、ただ淡々とやること。
それを真面目に誠実にやり続けること。
これに尽きると思います』
まさに、これが「お任せして生きる」という生き方。
「ここから先は神の領域」と思ったとき、ああだこうだとグダグダ言うことはなくなる。
そう思ったとき、宇宙も、神も仏も応援してくれる。
たまたままわってきたもの、それは、仕事に限らず、面倒なことでも、あるいは好きなことでも嫌なことでも、病気であっても、引き受けなければならない時は、引き受けるしかない。
そして、引き受けたらそこで誠実に真面目に努力する。
しかし、結果は神のみが知るであり、「そこから先は神の領域」。
「お任せして生きる」という生き方を選びたい。 |
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