2018.10.13 |
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百歳人生を生きるヒント |
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五木寛之氏の心に響く言葉より…
日本人は、明治維新以後、和魂洋才を旨として、西洋の哲学や思想を、近代化の規範としてきました。
その結果、日本は科学・技術大国として成長をとげました。
しかしいま、これまでの洋才主義に翳(かげ)りが出てきています。
いや翳りどころか、もうこれまでの価値観だけではやっていけない所まで来ているのかもしれません。
私はいま、明治維新以来の脱亜入欧の国のあり方、西洋一辺倒あるいはアメリカ一辺倒のあり方を、見直すことが求められているような気がしてなりません。
たとえばキリストは、30代で亡くなりました。
若くして死んだキリストの宗教観は、いわば青春の熱情が横溢(おういつ)しています。
キリスト教は、青春の宗教と言っていいかもしれません。
西洋の文化に、一種の青春主義の匂いがまとわりつくのは、このキリストの青春期の死と、大いに関係があると、私は考えています。
それに対し、ブッダは長生きをしました。
旅先で80歳で亡くなりました。
30代の宗教家と、80代の宗教家では、神の観念や人間観が違って当然です。
すでに日本という国は、戦後の青春期、繁栄期を終え、下山の道を歩みはじめました。
これまでの青春主義では、下山の道のりは通用しません。
しかも高齢化社会を迎え、国民も下山の道を歩みはじめています。
いま私が、ブッダの思想の可能性に思いをめぐらすのも、そのためです。
医学や科学の進歩の恩恵で、人の寿命は100歳まで伸びるという。
そういう大転換の時代を迎えているいま、人間という生き物への価値観が追いついていない。
人生の生き方や、死生観が「人生50年」と考えられていたモノサシのままです。
そこに、漠(ばく)とした不安が蔓延しているのではないでしょうか。
100歳人生を生きるには、そもそも、これまで信じてきた人生観や死生観の転換が求められます。
「人生100年」時代にふさわしい生き方や、人間性についての考え方を、あらためて再構築し、新しい生き方、新しい哲学を打ち立てることが必要ではないか。
私はそんなふうに考えるのです。
世界に先駆けて、日本人は、100歳人生を生きなければならない入り口に立っています。
日本人は、あとにつづく国々に、どうすればいいかを、指し示す役割があるのではないかとも考えます。
そのためには、私も、いくつか覚悟をしなければならないと感じています。
『百歳人生を生きるヒント (日経プレミアシリーズ)』
五木氏は、本書の中でこう書いている。
『2017年の初めに、世界的ベストセラーとなった2冊の本があります。
1冊が「サピエンス全史」で、もう1冊が「ライフシフト―100年時代の人生戦略」という本です。
「サピエンス全史」ですが、7万年前、アフリカの片隅でとるに足りない動物だった人類が、西暦2017年の現在、いまや神になる寸前まで進化して、永遠の若さだけでなく、神の役割をも手に入れようとしていると、歴史学者の著者は述べています。
この歴史学者の説を、現在進行形の社会に照合するとどうなるのかという本が「ライフシフト」ではないかという感想を持ちました。
国連の推計によると、2007年に日本で生まれた子供の半分は、107歳以上生きることが予想されているというのです。
著者はこう書いています。
「私たちはいま途方もない変化のただなかにいるが、それに対して準備ができている人はほとんどいない。その変化は、正しく理解した人には大きな恩恵をもたらす半面、目を背けて準備を怠った人には不幸の糧(かて)になる」』
もし仮に定年を60歳だとしたら、100歳までには40年もある。
人生の半分近くを余生として生きるにはあまりにも長すぎる。
年金の支給の支給開始年齢は毎年遅くなっているし、医学の進歩により未来は長寿が約束されている。
そこで必要となってくるのが、「生涯現役」の考え方。
金銭的にも健康的にも精神的にも、現役で長く働けることが、長寿社会には必須だ。
そして精神面では、ある程度の年齢になって必要となってくるのが、仏教的な考え方。
仏教には「生老病死」という逃れられない苦しみがあると教えている。
これを「四苦」というが、この四苦を逃れる方法が「悟り」を得ること。
百歳人生を生きる覚悟を身につけたい。 |
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