2018.8.6 |
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受け容れるということ |
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「自分の子供が不登校になってしまった。どうしたらいいだろう」という相談を受けました。
結局、不登校になった子供を受け容れれば、受け容れた瞬間に、その問題は何も生じなくなってしまうのです。
問題が解決してしまうというよりは、問題そのものがなかったということに気がつきます。
「問題だ、問題だ」と言っていた自分の問題であって、もともと不登校そのものが問題なのではなくて、それを「問題だ、問題だ」と言っている自分の心の問題として、それが悩み・苦しみになってしまったということでした。
子供が不登校になった、学校に行かなくなった。
ただそれを淡々とした事実として受け容れた瞬間に、子供にとっても自分にとっても、何の悩みも苦しみもなくなってしまうのです。
思いどおりにしようとしないこと。
それはイコール、その目の前の現象を受け容れるということでもあります。
生老病死、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことも、そのまま受け容れる。
そうすると、悩み・苦しみから遠ざかることができます。
悩み・苦しみを持たなくて済むことができます。
《病気をしたら病気をしたでよし。
死ぬようになったら死ぬようになってそれでよし。
愛している人と別れなければいけない状況になたらそれもよし。
それについて評価・評論をしない。
感想をいちいち言わない。
「ああ、そういうふうになりましたか」というふうに受け容れることが、自分にとっていちばん楽なのです。》
『釈迦の教えは「感謝」だった』風雲舎
「災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。これはこれ災難ののがれる妙法にて候」
良寛和尚の言葉だ。
「災難にであってしまったら、災難にあうのがよい」、というのは、なんの愚痴も文句もいわずに、何の感想も言わずに、淡々とそれを受け容れなさい、ということ。
それが、災難を逃れる唯一の方法だ、と良寛和尚は言う。
文句を言ったところで、現状が変わるわけではない。
起きてしまったことは、それを無かったことにしたり、変えたりすることはできない。
唯一できることは、それを受け容れること。
人生は、自分が書いた脚本通りだ、と肚の底に落ちている人は、目の前に展開するドラマを淡々として受け容れることができる。
「ああ、そういうふうになりましたか」と。
災難も病気も、生まれる前に、自分が決めた脚本通り、と思うなら文句も言えない。
人生の脚本には意味がある。
そのことによって、魂を磨き、自らが成長するという学びの場にするための脚本。
何事も、淡々と受け容れることができる人でありたい。 |
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