2018.3.15 |
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古典と歴史と人物の研究 |
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
安岡正篤先生が三十五歳の頃のことです。
岡山県閑谷(しずたに)学校において、「古本大学講義」と題して講演されています。
その中で先生は、東洋には「四部の学」というものがあると説明され、概略、次のような話をされています。
「四部の学」とは「経」「史」「子」「集」。
このうち、「子」は人生に独特の観察と感化力を持つすぐれた人物の著書のことをいい、これは「経」に従属させるべきものだといわれています。
「集」は詩文のことです。
従って、東洋の教学は「経」「史」「集(詩文)」の三つに分けて考えたほうがよい、といわれています。
これは私たちが学問修養をしていく上において非常に意義深い分類法であり、こういう分類法は東洋独特のもので、西洋の学問にはみられない。
なぜ、これが意義深いか。
まず、「経学」です。
「経学」というのは、人間はいかに生くべきかを研究する学問であり、我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる学問のことだ、と安岡先生は説かれています。
即ち、人間力を養い、人間性を高める学問ですね。
今日でいう「人間学」の根幹をなすものといっていいと思います。
これに対して、
「我われ人間はいかに生きてきたか」
「かく生きた故にかくなったから、人間はかくあらねばならない」
というふうに、歴史を照らして、人間の生き方・あり方を教えているのが「史」、即ち歴史だというのです。
つまり、史学は経学を実証するものです。
「経」を離れて、「史」なく、「経」と「史」の学を兼ね修めて初めて人は知行合一的に、全人格を練っていく。
次に「集」ですが、人間の情緒・情操を養っていくのが詩文です。
人は詩文を読むことによって感動し、行動にかりたてられます。
そこで、私たちが本当に自己を磨いていくには、「経」と「史」と「詩文」の三つを深めていかなければならない。
この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝を増していく…そう安岡先生は説かれています。
この三部はいずれも大事ですが、根幹はやはり「経学」です。
「我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる」…そういう学びを深めていきたいものです。
後年、安岡正篤先生は、
古典と歴史と人物の研究…これなくして人間の見識は生まれてこないといわれました。
壮年期に説いた三部の教えをより平明に語られた言葉だと思います。
『心に響く言葉』致知出版社
安岡正篤氏はこう語る。
「歴史はくり返す。
たいていのことは古典の中にある。
何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。
自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ」(安岡正篤)
我々が古典を学ぶ理由はここにある。
現在起こっている事象 を解きほぐし、未来のことを予測するには古典の勉強が一番だ。
人間としての根本は少しも変わっていないからだ。
また、
「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」(安岡正篤)
我々が人物学を学ぶ理由がここにある。
中国の古典「呻吟語」中でも、そのことが述べられている。
「深沈厚重(しんちんこうじゅう)是(これ)第一等
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等
どっしりと落ちついて深みのある人物が第一等。
細かいところにこだわらないような豪放磊落な人間は第二等。
そして、目から鼻に抜けるように頭が切れて弁の立つ「聡明才弁」の人は第三等だという。
また、
「徳とは無類の明るさのことである」(安岡正篤)
無類の明るさは「集」、すなわち、 人間の情緒・情操によってつくられる。
古典と歴史と人物の研究をコツコツと重ねたい。 |
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