2018.3.1 |
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口善人と呼ばれないために |
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北川八郎氏の心に響く言葉より…
《釈尊はいう。まず自分を正しく整え、次いで他人に教えよ。そうすれば煩わされて悩むことが無いだろう。他人に教える通りに、自分でも行え。自己は実に制し難いからである。》
本当に自己は制し難い。
人に忠告するのは簡単である。
人に良きことを説きたければたくさんの本を読み、そのことばを伝えれば良い。
しかし、頭で考えたことや、自分がなし得ないことをいくら説いたところで、ことばに光や、重みがないので、人の心にはしみ込まない。
不思議なことだ。
自分が体験し、苦しみ、そして平安や、安らぎを得て…釈尊のいわれる「先ず自分を正しく整えて」…初めて、人に喜びを与える感動等がことばになる。
その時こそ平凡な、使い古されたことばでも、人の心を打つ。
ことばにエネルギーが乗り、人の心に飛んでゆくからだ。
NHKのTV番組で、ある県の健康大会の模様を中継しているのを見ていた。
その中で、司会者を挟んで両側に東大の先生が座り、タバコの害をしきりにグラフや数字で示していた。
喫煙がガンの原因になることを説き終わり、「ところで、両先生も、タバコは吸われないんですよね」と司会者がいった時、二人とも「いえまだ吸っています」と答えた。
その瞬間、今までの講義内容は苦笑とともに消え去ってしまった。
東大の先生であろうと…まず、「自分を正しく整え、次いで他人に教えよ」と2500年前に釈尊は教えている。
そうすれば、その東大の先生が信を失うことはなかったであろう。
たくさん良きことを口にしていると、それが自然に自分の耳に入り、自分が少しずつ正されてゆく。
良きことを行い、良きことを口にし続けると、自分が少しずつ修正されて澄んでくるのが解る。
自分がなさないことを口にして、人を諭すのを名づけて口善人と呼んでいる。
私自身への警告である。
口善人と呼ばれないために、出来ないことは口にしない。
『ブッダのことば「百言百話」』致知出版社
「修身斉家治国平天下 (しゅうしんせいか ちこくへいてんか)」という言葉が「大学」にある。
「大学」とは、中国の儒教の「四書五経」のうちの、最も大事だとされる教え。
あの、銅像でよく見かける、薪を背負っている二宮金次郎が読んでいる書物が、この「大学」だ。
天下をおさめるには、先ず自分の心を鍛え、身を修める。
そして次に家庭をしっかりとととのえ、そののちに天下を平らかにするということ。
親でも教師でも、経営者でもリーダー的な立場にある人が、口で言っていることと、やっていることが違ったら、誰もついてこなくなる。
自分を修めることができていない人は、人にモノを教えたり、導いたリすることはできない。
親は、往々にして、自分ができなかったことを子供に要求する。
教師も、経営者もまた然(しか)り。
他人に言うのは簡単だが、自分を律することはまことに難しい。
口善人と呼ばれないために…
いくつになっても、自分の行いを律し、身を修める人生を歩みたい。 |
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