2018.1.19 |
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許しおおすこと |
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修養団・元伊勢道場長、中山靖雄氏の心に響く言葉より…
どんなご縁であっても、自分のためにその出来事に出会わせてもらっています。
そのことを本当に納得し、「こういうご縁だったんだなぁ」と心から思えた時に、自分が開放されるのです。
しかし、到底受け入れられない、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい出来事が起きてしまった時も、本当にそんなふうに思えるのか。
そのことを考えてみたいと思います。
私のところへ勉強に来られていた高円寺さんというご夫婦がおられました。
この高円寺さんの5歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。
その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、このご夫婦はその人に会いに行かれました。
そして、どうされたかというと、このご夫婦はその事故を起こした方に向かって、土下座をして、お詫びされたのです。
「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。
こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。
どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになってください。
本当にごめんなさい」
このように謝られたのです。
ご夫婦には、悲しみも、許し難い思いも当然あったでしょうが、命が生まれてきた理由を本当に学びきっておられたのですね。
頭でわかっていても、実際そんな目にあった時に、本当にそう思えるかどうかということが難しいわけです。
ご夫婦は普段からそのような生き方をしていたからこそ、その時にそういう思いが湧かされたのでしょう。
「許す」ということの大切さはみんな知っているかもしれません。
しかし、「許すこと」「許しきること」さらに、「許しおおすこと」は深さが違うのです。
この「許しおおす」という世界は、このご夫婦のようなことをいうのかなと深く感じさせられました。
その高円寺さんご夫婦が、この前会いに来てくださってこういうお話をしてくださったのです。
「あの事故から30年経ちました。
あの子の30年の命日に娘のお墓参りに行ったです。
お墓参りに行くと、新しいお花がお供えしてありました。
ああ、誰かがお花を取り替えてくれたのだなぁと思って、いったん帰りかけたのですが、ふともう一度お墓に寄ってみたんです。
すると、雨降りの中、娘のお墓に一生懸命拝んでいる人がいたんです。
ああ、あの人が花を替えてくれたんだなと思って、よく見てみたら、娘を轢(ひ)いた相手の方だったのです」
とおっしゃいました。
相手の方を見てびっくりした奥さんは、
「お墓参りをしてくださって、あなたもお詫びをしてくれていたのですね。
本当にありがとうございます」
と声をかけられたのだそうです。
すると、相手の方も驚かれ、
「お母さんでしたよね。ごめんなさい」
と謝られたあと、
「ここで会えると思いませんでした。
あの後、一度たりとも事故を起こしたことを忘れたことはありませんでした。
私が悪かったのです。
本当にごめんなさい。
奥さんとご主人の愛に包まれて、俺はどんなことがあっても人を許さなければいけないんだと思って生きてきました。
そして、娘さんを神様みたいに思って、毎日お詫びをして生きてきました。
お目にかかれて嬉しかったです。
ありがとうございます」
「許すこと、許しきること、許しおおすこと」
このことを私は高円寺さんご夫婦から教えていただきました。
その後、私が毎年お話をさせていただいているお寺があるのですが、私が行けなかったため、高円寺さんに代わりにお話に行ってもらったことがありました。
この時お話をしていただいたら、お話を聞いておられた方の中に、同じように交通事故の体験をされた方がいらっしゃったそうです。
そういう体験で悩んでおられる方に出会わせるようになっているのだな、とそれもまた不思議なご縁を感じるのです。
《「許しおおす」 すべてを受け入れることは、本当に難しいことです。しかし、命の理由を学びきったならば、きっと許しおおすことができます》
『すべては今のためにあったこと』海竜社
自分の子どもが轢かれたのにも関わらず、その相手を許す…。
到底想像もつかない、神のごとき凄(すさ)まじいばかりの許しだ。
このようなことが起きたら、ほぼ全てといっていいほどの人たちが、何日も何ヶ月も、身体が震えるほどの怒りでみち、相手を許すことはできないだろう。
「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ」(マハトマ・ガンジー)
「人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい」(マザー・テレサ)
許しおおすことができる人は偉大だ。 |
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