2017.8.13 |
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人口減少社会の希望 |
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山崎亮氏の心に響く言葉より…
日本には1718の自治体があり(2014年4月時)、そのうち約半数は2040年までに消滅の可能性がある。
こう予言したのは増田レポートで、もちろん「このまま何も手を打たなければ」という注釈付きで考えなければならない指摘なのだが、いまの日本では誰ひとり経験したことのない「人口自然消滅」という趨勢(すうせい)の中で、僕らは豊かな社会のあり方を想像していかなければならない。
人口が減れば税収も減る。
自治体が使えるお金は少なくなり、日本中のまちはますます寂れていく…。
そんな悲観的な未来を描くのは容易(たやす)いことだ。
しかし、「ちょっと待てよ」と思う。
日本は先道を転がり落ちるように衰退していくわけではない。
未知なる局面を迎えて、少しばかり身動きがとれなくなっていると考えたほうがいい。
それはちょうど、体型に合わなくなった古い服を脱ぎ捨てて、これからの自分にピッタリ合った、美しくて機能的な服に着替える段階といってもいいだろう。
日本の未来を考えるとき、ぼくはしばしば「縮充」という言葉を使う。
本来は繊維の加工に関する用語だが、人口や税収が縮小しながらも地域の営みや住民の生活が充実したものになっていくしくみを僕らは編み出さなければならない時期を迎えている。
そのしくみこそが、これからの日本のサイズに合った衣装であり、衣装を仕立てるために不可欠な力が市民の「参加」だと感じている。
未来とは誰かがつくってくれるものではない。
新しい国家モデルのもとで、僕たちがつくりあげるものである。
それなら人々がまちづくりに参加して、魅力的な地域を自らつくりだせばいい。
行政の都合だけで無理やりコンパクトシティ化を進めるのではなく、市民が話し合いの場に参加し、自分たちの未来を自分たちでつくりあげればいい。
行政だってそれを望んでいるはずなのだ。
市民が自らの情報発信をすること、企業の商品開発に市民が参加すること、市民参加型の地域包括ケアを実現させることは可能だろうか?
人口も経済も縮むかもしれないが、市民の生活は充実するような方策がきっとあるはずだ。
そのとき、キーワードとなるのが「参加」である。
人々の主体性を伴った参加なくして「縮充する未来」はありえない。
幸いなことに、参加の潮流はさまざまな分野で高まりつつある。
縮減でも縮退でもない。
拡充でも補充でもない。
縮みながら充実させて、質感が良く温かい地域社会をつくること。
いわば「少数精鋭化」する未来について考えてみたいのだ。
拡大する時代の「少数精鋭」は、選ばれし者に限られた話だったかもしれない。
しかし、縮充する時代の少数精鋭化はみんなが参加することを前提とする。
そして、その潮流はすぐに始まっているのだ。
『縮充する日本 「参加」が創り出す人口減少社会の希望 (PHP新書)』
山崎氏は本書の中で「参加」についてこう語る。
「『個』が優先されてきたことによる違和感のようなものに、日本人は気づき始めているのではないかという思いがある。
はたして『個』の時代は僕らの生活を豊かにしたのだろうか。
都合よく一人になれる一方で、病気になったり、事故に遭ったときの不安は増大していないか。
鬱、自殺、孤立死といった悲しい出来事や、振り込め詐欺のような卑劣な犯罪は、人と人とのつながりが希薄になったことと無縁ではないように感じている。
OECD(経済協力開発機構)が2005年に実施した社会的孤立に関する国際調査によると、家族以外の人との交流がまったくない、あるいはほとんどないと答えた日本人が15.3%もいて、この数字はOECD加盟国の中でもっとも高いという。
諸外国ではあまり見られない孤立死が日本で増えている背景には、人と人とのつながりが希薄になってことが一因ではないかと指摘している。
講演などでもしばしば話すのだが、僕には大好きなアフリカの諺(ことわざ)がある。
『早く行きたければ一人で行きなさい。遠くまで行きたければみんなで行きなさい』
一人では満たされない感情はたくさんある。
喜びも、悲しみも、孤独の中で噛みしめるより、仲間と分かち合ったほうがいい…。
そう考える人たちが日本中で増えてきていると感じる」
日本の人口減少は恐ろしいほどの速さで進んでいる。
我々は、このことは避けられない未来なのだと腹をくくり、その方向にそった最善の方法を探していくしかない。
そのひとつの解が、「参加型」のしくみをつくっていくことだという。
考えてみれば、我々は欧米型の「個」を重視する考えを従来より取り入れ、それが今、行き過ぎてしまったのかもしれない。
『早く行きたければ一人で行きなさい。遠くまで行きたければみんなで行きなさい』
人口減少社会での生き筋を探してみたい。 |
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