2017.6.24 |
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長生きする秘訣などない |
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医学博士、帯津良一氏の心に響く言葉より…
私はアンチエイジングが嫌いです。
なぜ年を取ることを嫌がるのか、よく理解できません。
間もなく80歳に手の届く年齢になりましたが、青年のころとも壮年のころとも違う独特の味わいが出てきて、私は今の自分がとても好きです。
60代のときは、からだも動くし精神的にも充実しているし、これが最高だと思っていました。
でも、70代になると、なかなか居心地がいいんですね。
今は、80代になるのが楽しみで仕方ありません。
青年には青年の良さがあり、壮年には壮年の良さがあります。
そして、老年になると、これまでの人生がきゅっと詰まって、それでいてギューギューではなくて、高級なオムレツのようにふんわりしている。
そんな感じが、私は気に入っています。
髪の毛が薄くなってきても、どこか痛いところがあっても、それは長い間、がんばって生きてきた証(あかし)です。
それを、まるで悪魔が取りついたように、必死になって追い払おうとするのは、自分のからだに対して失礼だと思います。
また、死も忌み嫌われるものです。
だれにでもいつか訪れることなのに、一生懸命に見ないようにしている。
だから、いざというときになって慌ててしまうのです。
長生きしたいですか?
と聞くと、ほとんどの人がYESと答えます。
でも、長生きの中には年を取ることも含まれていて、いろいろなところに不具合が出てきて不自由なことを背負うことですよと言うと、そうではなくて、人のやっかいにならずに長生きして、ぼっくりと死にたいと言います。
そんな都合のいいように物事が運ぶと思いますかと聞くと、そのために、酒もあまり飲まないようにして、たばこもやめて、毎朝、散歩をしています、と答えます。
実際は、いくら節制しても病気になる人はなるし、不摂生な生き方をしていて元気に生きている人もいるわけです。
『長生きするヒトはどこが違うのか』(春秋社)という本があります。
アメリカの老化を専門とする2人の生理学者が書いたものです。
いろいろと長生きする方法が書かれているのですが、最後の「長生きするヒトはどこが違うのか?」という結論では、「違うところなんかない」で締められているのです。
これには笑えるというか、拍手を送りたくなりました。
昔から、たくさんの人が長寿の方法を求めて、いまだに見つからないのだから、そんなものはないと考えたほうがいいでしょう。
人間、長生きするためには節制しなければならないと思われているが、70歳を過ぎたら、いつも節制をしないで、週に1回は悪食をしたほうがいいと書かれているのです。
75歳になったら週に2回は悪食。
だんだんと健康的ではない生活を増やしていくのがいいという、なかなか粋な考えが披露されていました。
あれを食べちゃいけないとか、これはからだに悪いとか、そんなことを考えて生きるのは窮屈です。
私は、凛として老いることをおすすめしていますが、私が見る限り、すてきに年を重ねている人は、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲んでいます。
残念ながら、そういう人は少なくて、私は、せっかく70歳とか80歳まで生きてきたのだから、そのご褒美として少しずつ羽目を外して、もっと自由になればいいのにと思えてなりません。
いくら健康に気をつけて生きていても、交通事故や災害で死ぬかもしれません。
あまり、健康、健康と言っているのは、私には、魅力的には見えません。
志を果たすには健康はとても大切なことです。
でも、志を果たせずに倒れたとしても、それはそれでいいじゃないですか。
本当にいのちがけでやっていたことなら、必ず、だれかがその志を引き継いでくれるものです。
あっちの世界から、自分が蒔(ま)いた種が、どんなふうに育っていくのか見ているのも、またおつなものです。
『粋な生き方 病気も不安も逃げていくこだわらない日々の心得』幻冬舎ルネッサンス
仏陀は、人には4つの逃れられない苦があるという。
それが、「生・老・病・死」。
人は、この世に生まれたら、必ず、老い、病にかかり、そして死ぬ。
仏教では、自分の思い通りにならないことを「苦」という。
思い通りにしようと思うから、悩んだり、心配したり、嫌になったりする。
思い通りにならないことが常である、と思い定めることができるなら、いいことも悪いことも、すべてを肯定し受け入れることができる。
『起こることはすべて必然、必要』(船井幸雄)
一見不幸に見えることも、ベストのタイミングで起こっている。
すべてを受け入れ、粋に生きてみたい。 |
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