2017.5.15 |
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「幸せ」の本質は「日常」 |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
どうも、私たちには、「見ているのに見えていないもの」が、たくさんあるようです。
私自身にも知らないがゆえに「見えないもの」が、山ほどあるに違いありません。
その中の、とても重要なものに気がつきました。
「幸せ」というものです。
実は、私たちは「幸せ」というものの本質を知らなかったのかもしれません。
「見てはいる」けれども、「見てはいない」ものの一つに、「幸せ」というものがあるように思えます。
結論を言ってしまえば、「幸せ」の本質は「日常」なのです。
「山のあなたの空遠く」にあるわけではありません。
例えば、偏頭痛の人がいるとします。
ずっと偏頭痛に悩んできた人は、「もしこの偏頭痛が消えてくれたら、どんなに幸せだろう」と思っていることでしょう。
そして、ある日突然、その偏頭痛が消えたら、「何もない」「静かで平穏な」日々が、どれほど「幸せ」であるか、を実感するのです。
では、その偏頭痛が今まで全くなかった人は、どれほど「幸せ」であったのか。
まさしく「幸せ」の海の中に暮らしてきたのです。
ですが、それが(偏頭痛が持続していたことが)自分の生活になかったがゆえに、自分が「幸せ」の中に暮らしていることを知りませんでした。
「知らない」がゆえに「見えない」ものが、たくさんある。
目に入っているにもかかわらず、「見えない」し、「わからない」「認識できない」のです。
その代表的な例が「幸せ」であるのかもしれません。
ある人が、例えば台所で、タクアンを切りながら、「あーあ、幸せ」と言ったとします。
その人は、台所でタクアンを切っているだけで「幸せ」なのですから、「どこに行かなくても」幸せ、であるのです。
「どこへ行かなくても幸せ」な人は、「どこに行かなくてもよい」のですから、「どこに出かけてもよい」ということになります。
ドイツの詩人、カール・ブッセは、「山のあなたの空遠く『幸い』住むと 人のいう」と、詩に書きました。
「ああ われひとと 尋(と)めゆきて」というのは、「友人と泊りがけで旅に行ってきたが」ということです。
けれども、「涙さしぐみ かえりきぬ」、涙ながらに帰ってきたのだそうです。
つまり、「幸」に会うことはできず、「悲しくて」涙を流しながら帰ってきた、ということなのです。
それでも、「山のあなたに なお遠く 『幸』住むと人のいう」、とカール・ブッセは書いたのでした。
海の中に住む魚には「海」の姿がわかりません。
同様に、「幸」の中に住む人間には「幸」の姿がわからない。
「見てはいる」が「見えていないもの」が、世の中にはたくさんあるのかもしれません。
『生きる大事・死ぬ大事 死を通して見えてくる幸せな生き方』イースト・プレス
小林正観さんは、「イライラさせる人がいる」わけではなく、「イライラする自分」がいるだけだ、という。
同様に、「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけ。
万人に共通する「幸せな状態」などない。
病気で入院中であってもその中に「幸せ」を見つける人もいるし、大きくて立派な家に住みお金も十分あるにもかかわらず「不幸」な人もいる。
健康なときはそのありがたさや幸せに気がつかない。
病気になってみてはじめて、そのありがたさや幸せに気づく。
「明」は「暗」があるからこそ、「明」が際立つ。
『「どこに行かなくても」幸せ』
ディズニーランドやハワイに行けなくても、今の日常で十分幸せを感じている人はいる。
『「幸せ」の本質は「日常」』
目の前の日常の中に、幸せを感じることができる人が、「幸せ」な人。
今ある幸せに気づける人でありたい。 |
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