2017.3.12 |
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自分の中の鏡を磨く |
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浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…
ある高校の校長先生に聞いた話です。
その学校の剣道部の部長は剣道初段にすぎませんでした。
自分がそれほどの腕ではないと思っていたせいか、生徒が試合に勝ったりすると非常にほめて、「そのやり方でいいぞ。がんばれ」と励ましたのだそうです。
「欠点などどうでもいいよ。得意技だけを磨け」というのが口癖でした。
おもしろいことにこのような指導を受けた生徒は学業成績もよくなったというのです。
次に部長となった先生は剣道四段でした。
前の先生は甘やかしすぎたとして、悪いところはびしびし直すという指導法でした。
ところがそれから三年たって生徒は欠点を直すことだけに力を使ってしまい、あまり技に進歩がなかったというのです。
それどころか、生徒の学業成績も芳しくなかったそうです。
校長先生は「ある学校が一つの競技で県で優勝したりすると、他の部も皆強くなるといわれますが、その理由がわかったような気がします」と言っていました。
校長のお話はたいへん示唆的です。
「自分はだめだと思っている人を、人はばかにする」という外国のことわざもあります。
ですから、まず自分が優れていると思うべきなのです。
禅では自分が本来仏であるという気持ちをしっかり持つべきだ、とされます。
また禅の修業は、仏でない者が仏になろうという修業ではなく、自分は本来仏と同じ心をもっていたと気づかせてくれるものだとされます。
南嶽(なんがく)という僧は六祖慧能(えのう)の法を継がれた方です。
南嶽の下で若き日の馬祖同一(ばそどういつ)が修行していました。
馬祖はのちに中国唐代の禅宗発展の中心となる僧です。
ある日、南嶽が瓦(かわら)をごしごし磨きだしました。
馬祖は変に思い、「何をなさっているのですか」と訊きました。
「うん、瓦を磨いている」
「瓦を磨いてどうするおつもりですか」
「鏡にしようと思う」
これを聞いて馬祖が「瓦をいかに磨いても鏡にはならないでしょう」と問い返しました。
すると南嶽が唐突に「お前はここで何をしている」と問い返しました。
「座禅をしています」と答えると、南嶽は「座禅をして何になる」と訊いたのです。
「座禅をして仏になろうと思っています」と答えました。
すると南嶽は「瓦を磨いても鏡にならないように、座禅をしても仏にはなれまい」と言ったのです。
驚いた馬祖は「それではいったいどうしたらよいのでしょうか」と問いました。
南嶽の答えは「もし牛馬が動かなくなったら車をたたくか、牛を叩くか」というものでした。
この言葉で目が覚めた馬祖は南嶽の下で本気で修行を積み、法を継いだのです。
南嶽は馬祖の修行がルーティンワークに陥っていると見て、抽象的な悟りを求めてはいけないと、このような奇妙な言動で釘を刺したのでしょう。
このエピソードが示しているのは、座禅をしても仏にはなれないということではありません。
私たちの修行は、瓦を磨いて鏡にしようというような不可能なことをしているのではないということです。
最も大事なことは、本来持っている鏡を磨いて、さらにきれいにし、そのきれいな心で自分の仏心を自覚することなのです。
『心が奮い立つ禅の名言』双葉社
五百年に一度の名僧と言われた白隠禅師は、「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中でこう言っている。
「衆生(しゅじょう)本来仏なり」
我々はみんな、そのままで仏さま。
だからこそ、自分を磨いて、磨きぬいて本来の仏である自分自身を取り出さなければならない。
それが、ほめることであり、その存在を認めること。
まさに、禅語にある「明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)」だ。
宝物は、すでにあなたの手の上にある、あなた自身が持っているということ。
「名選手必ずしも名監督にあらず」
という言葉がある。
自分が実績をあげたからと言って、それと同じやり方を選手に押しつけてもうまくはいかない。
相手のよいところを引き出せる人を、名監督というからだ。
自分の中の鏡を磨き、よいところを伸ばしたい。 |
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