2017.1.15 |
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法遠去らず |
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臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…
《法遠去(ほうおんさ)らず―あきらめない、やめない、 ここを去らない》
浮山(ふさん)法遠禅師は葉県(せっけん)禅師の弟子である。
この葉県禅師こそ、まさしく「厳冷枯淡」、 人情のかけらも許さないほどに厳しい家風で鳴り響いていた。
その禅師のもとに、若き法遠は修行に出かけて入門を請うた。
古来禅門では容易に入門を許さない。
今日でも「庭詰(にわづめ)」と称して、 玄関先で何日も頭を下げ続ける。
まして厳しさで有名な葉県禅師のこと、 幾日も入門を願うも許されない。
雪の舞うある日、ようやく葉県禅師が現れるや、 僧たちに頭から水をぶっかけた。
たまりかねた僧たちはみな去ってゆくが、法遠は「 私は禅を求めてまいりました。 一杓の水くらいでどうして去りましょうか」と、留まって、 初めて入門を許される。
ある時、法遠が典座という、料理の係りを努めていた。
葉県禅師の「枯淡」ぶりは想像を超えており、 みんなは飢えに苦しんでいた。
師の葉県禅師が出かけたのをよいことに、 法遠はみんなのために特別の「油麺(ゆめん)」をご馳走した。
ところが、ようやく馳走のできたまさにその時、 葉県禅師が予定より早く帰山された。
烈火の如く怒った葉県禅師は、「油麺」の代金を法遠に請求し、 さらに三十棒くらわせて、寺から追い出した。
法遠の道友たちは、 かわるがわる師に許しを請うが聞き入れられぬ。
せめて外から参禅でもと願うがこれも拒否された。
法遠はやむなく町を托鉢(たくはつ)して「油麺」の代金を賄( まかな)う。
ところが葉県禅師が外出すると、 法遠が寺の敷地に居住しているのを見て、 さらにその家賃も納めよと迫る。
容赦のない仕打ちだが、法遠はそれにもめげずに、 町をひたすら托鉢する。
ある日、葉県禅師が町に出ると、 黙って風雨に耐えて托鉢する法遠の姿を目にする。
そこで初めて法遠こそ真の参禅者だと言って、寺に迎えて、 自らの後継者とされた。
今の時代なら考えらえないようなひどい仕打ちである。
それでもひたすら耐えぬいた法遠の志を貴んで、「法遠去らず」 という逸話として伝えられている。
古来禅の修行は行雲流水などと言われ、 自由自在に師を求めて行脚(あんぎゃ)をした。
それも大事である。
しかし、 どこにいてもその師や道場の欠点ばかりを目にしていてはものには ならない。
葉県禅師など実にひどいと思われるかもしれない。
禅宗の老師はよく理不尽なことを言いつけて修行僧を困らせる。
しかしながら、世の中を生きていくには、道理にかなう事ばかりではない。
「なぜ、こんな目に遭うのか」と悲憤慷慨(ひふんこうがい)することもある。
しかし、人間の真価が問われるのは、むしろそんな時であろう。
去る時の弁解はいくらでもできる。
しかし、一言も発せず黙して忍ぶ事の尊さを知らねばならない。
自然の災害なども然り、なぜこんな目にと問うても、道理などあろうはずもない。
それでも人はそこで耐えて生きねばならない。
『人生を照らす禅の言葉』致知出版社
《閑古錐(かんこすい)》という禅の言葉がある。
「使えなくなった錐(きり)のことだ。
切れ味の悪くなった錐は、道具としては役に立たない。
しかし、長い年月をかけて、穴をあけ続けてきて丸くなった錐には、ただ鋭いだけの錐にはない、円熟した魅力がある。
禅では、真の修行者のことを閑古錐という」(ほっこり、やさしい 禅語入門)より
かつて連合艦隊を率いて、日本海戦で、当時最強のロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は、沈黙の提督と言われた。
しかし、若い頃は軽口をたたいてはおしゃべりする軽々しい男だったという。
だが、それでは指導者にはなれないと、自らを戒め、鈍(にぶ)くて重みのある寡黙な提督となっていった。
そして、終生目立つことを嫌ったという。
昨今は、鈍(にぶ)いことを嫌う傾向がある。
それは、鈍(どん)くさいとか、鈍間(のろま)であるとか、鈍感だとかいう言葉で表される。
しかし、「鈍い」の反対の「鋭(するど)い」ことは決していいことではない。
鋭すぎて、人を傷つけたり、理屈をいって行動が伴わなかったり、人のアラばかりが見えてしまうようなことだ。
理不尽な仕打ちや、災いに出会った時は、鈍さがむしろ救いとなる。
「法遠去らず」
ジタバタせず、「鈍」を大事にする人でありたい。 |
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