2016.5.7 |
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念ずれば花ひらく |
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臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…
坂村真民先生は生涯を通じて、母の恩に報いようとされた方です。
私たちがよく知っている「念ずれば花ひらく」というこの言葉も、真民先生の詩に記されていたものです。
「念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった」
《念ずれば花ひらく》
真民先生の母親はまだ36歳の若さで、小学校の校長だった夫を亡くしました。
それまで裕福だった一家の暮らしは激変します。
11歳の姉を頭に8歳の真民先生、6歳、3歳、生後11ヶ月の5人の子どもを抱えて、若いお母さんは途方にくれたことでしょう。
それでも真民先生の母親はわが子を一人も手放しませんでした。
大変愛情深く、意思の強い方だったことがうかがえます。
父親が亡くなってまもなくのこと、母親の実家から祖母がやってきます。
11歳の長女と8歳の真民先生、6歳の妹の3人を養子か奉公に出し、幼い子二人をつれて実家に戻るように説得しに来たのです。
今の人たちが聞くと、ひどい話に思えますが、あの時代ではそれが当然でした。
むしろ良識的な判断だったと思います。
しかし、真民先生の母親は説得に応じませんでした。
狭い家でしたから、真民先生はじっと息をひそめてそれを聞いていたというのです。
説得は昼間から始まり、夜になっても続きました。
それでも母親は首をたてに振りません。
時計の針がとうとう深夜零時になっても、母親は説得に応じない。
午前1時になっても、8歳の真民先生は一睡もできずに、隣の部屋で耳をそばだてていたのです。
母親は最後の最後まで説得に応じませんでした。
祖母はあきらめて帰って行きました。
もし説得に応じていたら、その明くる日から子どもたちはバラバラになっていたでしょう。
どんな一生になっていたかわかりません。
母が頑張ってくれたおかげで、自分たちはひとつ屋根の下にとどまることができた。
8歳の真民先生は母の愛を全身で感じたといいます。
これが真民先生の原点となりました。
それから母親の苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。
貧乏のどん底の暮らしが続きます。
その中で母親が口ぐせのように言っていたのが「念ずれば花ひらく」という言葉でした。
自分はどんなに苦労をしてでも、5人の子どもたちに決して寂しい思いをさせないのだという、その願い、母の強い思いが「念」という強い言葉にこめられているのです。
今の若い方は「念」というと、念力のようなものを連想して、念力で花がひらくのかと誤解する人もいるようです。
しかしこの詩の意味はまったく違います。
母の愛、母の強い思いのことを「念」という言葉で表しているのです。
5人の子どもたちは誰一人として戦争や病気で死ぬ者がいませんでした。
それはひとえに母の強い愛、強い思いのおかげです。
その母の思いを少しでも人々に伝えていきたいという願いがほとばしって、結晶になったのが『念ずれば花ひらく』という詩だったと、真民先生は語っています。
『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう』PHP研究所
今どんなに偉くなっている人であろうと、若い人も年配者も、男も女も、誰一人として自分の母親の世話になっていない人はいない。
お乳を飲ませてもらった
オシメをかえてもらった
着替えさせてもらった
ご飯を食べさせてもらった
病気のとき看病してもらった
抱っこしてもらった
もし、母親がいなければ、この世に生まれ、生きていくことができなかったのに、我々はそのことを忘れている。
それは、見かえりを求めない、ただ与えるだけの無償の愛…
「念ずれば花ひらく」
恩を感じ、感謝の気持ちを忘れずにいたい。 |
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