2016.4.25 |
|
淡宕(たんとう)の人 |
|
安岡正篤師の心に響く言葉より…
「人、一字識(し)らずして而(しか)も詩意多く
一偈(いちげ)参ぜずして而も禅意多く
一勺(いっしゃく)濡(ぬら)らさずして而も酒意多く
一石暁(いっせきさと)らずして而も画意多きあり
淡宕(たんとう)の故なり」(酔古堂剣掃)
人間は一字も知らなくても、つまり文字の教養がなくても、その人自体詩人的である。
「詩意多く」とは文字なんか知らんでも、いわんや学校なんか出ないでも、文芸の本なんか読まんでも、天品というか、人柄そのものが詩的である、いわゆるポエティカルである、あるいは芸術的である。
こいうことは確かにあります。
文字のない詩人、これは田夫野叟(でんぷやそう)にも自ずからあります。
同じように「一偈参ぜずして而も禅意多く」であります。
禅にはいろいろ公案というものがあって、俺は公案何則通ったということをよく言う。
『碧巌録(へきがんろく)』なんか百則もある。
教科書みたいに参禅公案の種類を集めたものがたしか千二、三百則あったような気がするが、そんな参禅なんてやらなくても、しかも禅そのものの心、禅意の多い人がいる。
かえって臭い禅僧とか、禅客なんかよりもずっと超脱した妙境にある人物もいる。
「一勺濡らさずして而も酒意多く」、ひと雫(しずく)も飲まないで、しかも酒意多い。
酒を飲む人間よりも飲酒の味・趣を豊かに持っておる者がある。
酒が飲めなくとも酒を楽しめる人、あるいは酒座、酒の座を楽しませる人、これは往々にある。
「一石暁らずして」とは一つの画き方も知らないで、しかも人間そのものに画意、絵心が豊かにある。
こういう人もある。
どうしてそうなのかというと、「淡宕の故なり」と締めている。
「淡」はこれまたその意味がなかなか難しい。
「宕」というのは、岩石が山の崖下(がけした)だとか、あるいは森の中に、堂々たる大石としてでんと構えているさま、これが「宕」であります。
だから豪傑の業を書くと「豪宕」となり、スケールの大きな、確乎(かっこ)として奪うべからざる力を持っている。
また、英雄の雄の字をつけると「雄宕」となる。
このようにいろいろ熟語がありますが、ここでは「淡」の字がついて「淡宕」という。
なかなか味が複雑である。
普通は淡といえば淡い。
淡いというのはどういうことかと言えば、味がない、薄味のことだなんて解釈しています。
しかしそんな解釈ならば、「君子の交わりは淡・水の如し」などは、君子の交わりというものは、水のように味がないとなってしまう。
君子の交わりはつまらんということになってしまう。
だから「淡」とは味がない、味が薄いというような意味ではない。
それならどういう意味かというと、この本当の意味がわかって、実は淡水とか淡交、君子の交ということがよくわかる。
一言で言うなら、甘いとも苦いとも、なんとも言えない妙味、これを淡という。
『酔古堂剣掃を読む (心に刻みたい不朽の名言)』致知出版
「西郷南洲の晩年はたしかに『淡宕』という境地です。
あの人がたまたま官を去って、帰村したときに、村にはいろいろな問題があって、村長が泣き言を言いにやってきた。そしたら西郷さんが座りなおして、
『そいじゃ、おいどんがやろうか』
と言った。
村長はびっくりした。
まさか明治維新の参議・総督が田舎の村長になるわけない。
冗談だと思った。
ところが冗談じゃない。
西郷さんは本気に言うておる。
つまり西郷さんから言わせれば、自分の生まれた村の村長も、偉勲赫々(いくんかっかく)たる参議・陸軍大将も同じことなのであります。
スケールというか、こういう境地というのが、『淡宕』です。
なかなかここまで行く人はいない。
人間もここまで行けば偉い。
英雄・哲人の終わりには、時折こういう境涯がある。
誰にでもわかるのは大西郷の最後の風格、晩年の風格であります」(同書より)
「こだわりがない」、「飄々(ひょうひょう)としている」、「ものごとに執着しない」という淡々としている人は魅力的だ。
淡宕という、淡々としている人は、明るくて軽い。
自然体で生きることができ、何に対しても肯定的だ。
淡宕の人でありたい。 |
|
|