2016.3.19 |
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余白に「美」を見いだす感性 |
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臨済宗妙心寺派福聚寺住職、玄侑宗久氏の心に響く言葉より…
禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師(ろうし)」と呼ぶ。
なかには二十代、三十代からそう呼ばれる人もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」である。
なにゆえここに「老」という文字を使うのか。
仏教は人生上の苦しみを、「生・老・病・死」と分類した。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬことである。
一方、人だけでないあらゆる物の発生から死滅までの変化は「成(じょう)・住(じゅう)・壊(え)・空(くう)」と表現される。
発生、継続、喪失、そして空っぽ、ということになるだろうか。
ところで「老」とは、後者の区分では「住」に当たり、生き続けている状態のことである。
生き続けていると、いろんなことが起こるわけだが、「老」は単独では意識しにくい。
昔から、老人の年齢規定は、五十五歳、六十歳、六十五歳と恣意的に変更されてきた。
つまり年齢そのもので「老」は定義できず、大抵は「病」や「死」を垣間見ることでついでのように「老」が意識される。
ある種の喪失体験として「老」は認識される、と考えたほうがいいだろう。
目はかすむ 耳に蝉(せみ)鳴く 歯は落ちる 雪を戴(いただ)く 老の暮哉(くれかな)
ずいぶんひどい歌だが、事実だから仕方がない。
要するに人は、若い頃に獲得してきたものを「老」と共にどんどん喪失していく。
それは逃れようのない「自然」である。
禅の道場では、いったいどんな修行をしているのか、「老師」という呼称はそのことに大きく関わってくる。
簡単に言ってしまえば、雲水(うんすい)と呼ばれる修行者たちがしているのは、あらゆるものを喪失する体験である。
新聞テレビなどの情報から遮断され、それまで築いてきた人間関係も、入門と共に暫定的に失われる。
むろん、本やCD、衣類や好きな品々などからも、離れなくてはならない。
話す、書く、見るなど、普段は欲求とさえ呼ばなかった行動まで制限され、入門後しばらくは笑うことさえ許されない。
まるでそこには人権という考え方も無きが如く、徹底的に奪い尽くされるのである。
ただしそこには明確な思想と、「老師」のまなざしがある。
つまり、雲水たちがどれほど喪失したかを、「老師」はじっと見据(みす)えている。
そして通常は「老」衰によって失うべきものを、雲水たちは修行によって無理矢理奪われるのである。
本来、元気でまだまだ獲得すべき年齢の彼らは、時ならぬ喪失に戸惑いながらも、やがて新たな世界観に開眼する。
不完全に見えるものへの愛情、自然への深い認識、あるいは「わび」「さび」なども、喪失を悲しみ反転したあげくの美学だろう。
そのような新たな価値観の体得者こそ「老師」なのである。
「老」を先取りした人、とも言える。
老「衰」という考え方はそこでは消え失せ、老「錬」、老「熟」などと認識し直されている。
思い込みで埋まっていた部分が「老」によって抜け落ちて余白になり、その余白こそがじつは無限の対応力の源であったことにも気づいていく。
日本文化は、老「成」し、老「熟」してこそ完成するものと、前提されている。
「不均衡」や「枯淡(こたん)」が褒め言葉になり、究極は「枯れてきましたね」などと賛美されたりする。
健全に生きつづけていけば、「老」の美は自然に宿る。
いや、日本人にとっての美とは、おそらく自然に従がう感覚と共に自覚されるのである。
大切なのは、たぶん喪失による余白に「美」を見いだす感性である。
『ないがままで生きる (SB新書)』
「放下著(ほうげしゃく)」という禅の言葉がある。
捨ててしまえ、すっかり手放してしまえ、ということ。
我々は、日ごろ、いろいろなしがらみや、変なプライド、こだわり、思い込み、心配事などを抱えて生きている。
いわゆる、「執着(しゅうちゃく)」だ。
「老成」とは、それらの執着がなくなり、円熟していくこと。
しかし、悲しいかなある程度の年齢を過ぎても、老成しない人は多い。
むしろ、若い頃より短気になったり、突然キレたり、怒ったり、暴力をふるったりするいわゆる暴走老人だ。
つまり、執着だらけの老人。
老熟すれば、人生の深さや、重さ、厚みやそして、沈(しず)みも少しずつわかるようになる。
『余白に「美」を見いだす感性』
余白は余韻(よいん)でもある。
また会いたくなる人には、余韻がある。
余白に「美」を見いだす感性を持ちたい。 |
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