2016.1.16 |
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情味を味わう |
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中村天風師の心に響く言葉より…
私は、いつも思う。
世の中の人の多くは、なぜもっと生活の中の情味というものを味わって生きようとしないのかと。
というのは、世の中の人々の生活への姿を見ると、たのもしい積極的な生活をしている人が事実において極めて少なく、おおむね多くは、消極的な、勢いのない力弱い生活に終始している人が多いからである。
これというのも、せんじつめれば、生活の中の情味というものを味わって生きようとしないからで、その結果は、ただ悲しいとか、苦しいとか、腹が立つとか、辛いとか、人生の消極的方面にのみ、その心が引きつけられて、いささかも大きい楽しさを感じないで、ただ生きるための努力のみに、二度と現実に環(かえ)って来ない日々を、極めて価値なく過ごしてしまわねばならないという無意味な人生を終始させることになる。
だから、真に生きがいのある人生に生きようには、何としても、われわれは、自分の人生生活の情味というものを味わうということを心がけるべきである。
否、厳格にいえば、この心がけの欠如した人の人生は、いかに地位ができようと、また仮に富を作り得たとしても、しょせんは、無意義で、空虚で、荒涼たるものになる。
また、人間の幸いとか、不幸とかいういものは、結果からいえば、生活の情味(じょうみ)を味わって生きるか否かによるといえる。
貴賤富貴などというものは第二義的のものである。
実際いかに唸るほど金があっても、高い地位名誉があっても、生活の情味を味わおうとしない人は、いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。
もっともこういうと中には、現代のようなせちがらい世の中、いささかも面白味を感じることの少ない時代に、生活の中から情味を見いだせよなどということは、ずいぶん無理な注文だと思う人があるかもしれない。
その生活に負わされている負担とか犠牲とかいう方面のみを考えると、およそ人間の生活くらい苦しく、つらく、悩ましいものはないと思われよう。
しかし、もっともっと立体的に人生というものは観察すべきである。
すると、期せずして生活の範囲の広いことと同時にその内容が、ちょうど精巧な織物のように、極めて複雑な色模様でちりばめられていることを直感する。
その直感なるものが、生活の中から、相当楽しく、面白く、愉快で、スウィートだと思えるものを、かなり量多く見いだしてくれるのである。
だから、われわれは、常に注意深く、日々の自己生活の中から、できるだけ多分に、情味を味わうように心がけねばならぬ。
『ほんとうの心の力』PHP研究所
「情味」とは、おもしろみやしみじみとした味わいのことで、人間らしいあたたかみや、優しい心遣いのこともさす。
何気ない日常の中に、情味を感じられる人は、幸せだ。
幸せとは、なるものではなく、気づくものだからだ。
たとえば、サービスの悪い食堂に入ってしまったとき、そこでお店の人に怒ったり悪態をついたりするのではなく、それを面白がったりネタにして楽しむことができるのか、ということ。
どんなことでも楽しんでしまったり、面白がってしまうことができる人は、カッコいい粋(いき)な人。
カッコよくて粋な人には情味がある。
幸福とか不幸という現象があるのではない。
それを感じる自分がいるだけだ。
何気ない生活の中に、情味を味わうことができる人でありたい。 |
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