2015.12.23 |
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昔はよかった |
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河合隼雄氏の心に響く言葉より…
「昔はよかった」と言う人は多い。
約3000年程前に書かれたバビロニアの粘土書版にも、「今日の若者は根本から退廃し切っている」、「以前の若者のごとく立ちなおることは、もはや望むべくもない」というようなことが書いてあるとか。
どうして、人間は「昔はよかった」と言うのが好きなのだろう。
もし、いつも「昔がよい」のだったら、人間はどんどん悪化の一途をたどるわけで、バビロニア以来で言えば、現代人は相当悪くなっているはずである。
ところが、一方では人間はこの3000年の間に大いに進歩してきた、とも言うことができる。
それではいったいどうなっているの、と言いたくなってくる。
「昔はよかった」と言う人の話を聞くと、大体は、「自分の子どもだった頃は」とか、「自分の青年時代は」とか、言うことになって、それに比べて「今の…」はなっていないというような非難につながってくる。
要するに、「自分が若かったときは」あるいは「自分たちは」よかったと言いたいのである。
次に、「昔はよかった」という論議は、それでは今何をすべきか、今何ができるか、という点で極めて無力なことが多いことに気づかされる。
「昔は受験がやさしくてよかった」と言ってみても、それではどうするか、方策がでて来ないのである。
こんなふうに考えてみると、「昔はよかった」論はどうも不毛なことが多いようだが、それにしてはよく聞かされるし、自分もつい言いたくなることが多いのはどうしてなのだろう。
それはやはり、社会の変化に自分がついてゆけなくなったときに、そう言いたくなるのではなかろうか。
現在の若者の生き方についてゆけない。
そのとき、それをそのまま認めるのは残念だったり、腹が立ったりするので、今時の若者はなっていない、というように言いたくなるのではなかろうか。
このために、人間は3000年も昔から、「今時の若い者は駄目だ。だんだんと悪くなる」と繰り返しながら「進歩」してきたのではなかろうか。
『こころの処方箋 (新潮文庫)』
例えば、実際の犯罪件数をみると、昭和37年(1962年)の犯罪件数は56万人で、それに対しおよそ50年後の平成22年(2010年)の犯罪件数は8万人、だという。
しかも、昭和37年は少年犯罪が16万人を占めている。
マスコミを見ていると、現代は少年犯罪が異常に増えているように思えるが、そうではなく、昔に比べて犯罪件数は大幅に減っている。
また、公共でのマナーも、昭和の時代は電車の中でゴミは散らかしっぱなしとか、外へのポイ捨ての横行、河川はゴミだらけなど、現在のマナーの方がよっぽどよい。
昔と比べて、治安が悪くなった、などということはまったくない。(「昔はよかった」と言うけれど)より
昨今、我々が目をしかめるような途上国のマナーがあるが、それはつい最近まで我が国でもあったこと。
偉そうなことはとても言えない。
『「昔はよかった」と言うときは、社会の変化に自分がついてゆけなくなったとき』
世界は少しずつだが、確実によくなっている。
「昔はよかった」と言わない人は、いくつになっても魅力的だ。 |
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