2015.11.25 |
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無私の人 |
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土光敏夫氏の心に響く言葉より…
リーダーといっても、何も政界に必要なリーダーとは、特別なものではありません。
会社にしても同じことです。
社長がエゴをむき出したら、下の者はついてこない。
総理総裁にしろ、社長にしろ、リーダーに要求されるのは、“無私(むし)の人”であることだと思う。
まして総理大臣というのは、一億を越える国民の意見を聞いて、ひとつのものをまとめていかなくてはならない、役割を背負っているものです。
なおのこと無私の人でないといけません。
総理大臣にしろ、社長にしろ、自分のエゴをむき出していては出来ない仕事なんです。
その意味では、最も損な役回りですよ。
だから、本来なら誰も総理大臣にはなりたがらないはずのものなのです。
ところが、現実はその逆で、誰も彼もが総理大臣になりたがっている。
これはおかしい。
ある意味では、総理大臣とか、社長など、トップに立つ人物は、自分からトップになるべきではなく、最もトップになりたくないと思っている人が、なるべきだといえるかも知れません。
《無私の人・土光敏夫》
『清貧と復興 土光敏夫100の言葉 (文春文庫)』
「個人は質素に、社会は豊かに」
というのが、土光敏夫氏の母の教えだったそうだ。
土光敏夫氏は経団連の会長にまでなった人だが、家庭生活では想像を絶するような質素な生活だったという。
隙間風が入るような古い家にはずっと冷暖房がなく、庭で野菜をつくり、メザシを食べ、「いくら立派なかっこうをしても、人間はしょせん中身で評価される」と背広やクツは破れるまで使った。
西郷隆盛は江戸無血開城の立役者、幕臣の山岡鉄舟を評してこう言ったという。
「徳川公は偉い宝をお持ちだ。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、なに分にも腑(ふ)の抜けた人でござる。
金もいらぬ名誉もいらぬ。命もいらぬといった始末に困る人ですが、あんなに始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に日本の大事を誓い合うわけにはまいりません。
本当に無我無私、大我大欲の人物とは、山岡さんのごとき人でしょう」(感奮語録より)
無我無私の人は、始末に困る。
なぜなら、金銭や損得等の、目先の欲では動かすことができないからだ。
無私の人には限りない魅力がある。 |
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