2015.11.19 |
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実践者になること |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
「正観さんのお話を聞いて、1週間ぐらいは調子がいいんですが、すぐ忘れてしまいます。ずっと忘れないようにするには、どうしたらいいでしょうか」という質問がよくあるのですが、忘れないためには、どうすればいいか。
それは《実践をし続ける》ことなのですね。
「いい話だったなあー」で終わってしまうと、3日後ぐらいには忘れていますけど、毎日、「ありがとう」を言い続けたり、トイレ掃除をし続けたりすることで、目の前にいろいろな奇跡や思いがけない現象が起きてきます。
自分も元気になるし、仕事も人間関係もスムーズに流れ出しますので、実践するのが楽しくなるのですね。
話の内容を忘れないためには「忘れないぞ」と気合を入れるのではなく、実践をし続けることですね。
すると、面白い現象があまりに頻繁に出てくるので、引き続きやりたくてしょうがなくなります。
私の中には「やらなければならない」というのはまったくなくて、「ありがとう」を言うのも、トイレ掃除をするのも全部損得勘定ですから。
損得勘定でやると続くのです。
どんなに下心があって、野心があったとしても、実際にそれをやった人を《実践者》と言います。
例えば、電車に乗っていて、おばあさんが乗ってきた。
ある男は、おばあさんに席を譲ってあげたいと思った。
自分の中では、人によく思われたいとか、評価されたいとかはまったくないけれど、人の目が気になって、席を譲ると恥ずかしい気がして譲らなかった。
それに対して、もう一人の男は、おばあさんが乗ってきたとき、目の前にきれいな女の人がいたので、この女性によく思われたいと思って、邪心と野心の塊で席を譲ったとしましょう。
さて、邪心の塊で席を譲った男と、すごく美しい心で席を立てなかった男と、どちらを神さまが喜んでいるだろうか。
多分、席を立った男のほうに微笑(ほほえ)みかけているのではないかと思うのです。
動機はどうであれ、席を譲った瞬間に、宇宙に一つ《喜ばれること》が生まれたのですから。
邪心や下心がまったくない人というのは、神の領域ですから、肉体を与えらえてはいません。
人間としては卒業してしまっている。
肉体を持っているということは、人間としての様々な体験をまだしたいということですから、損得勘定でやっていくことは、とても自然なことだと思います。
100%美しい心でやっていこうと考えなくてもいいですから「究極の損得勘定ができる人、究極の欲深い人になってください」と伝えています。
宇宙構造を40年研究してきて、損得勘定でないものは、どうもないようです。
どのような分野でも、人に喜ばれるような生き方というのは、すべて自分にとっての損得勘定で言えば“得”になっています。
人に喜ばれることをして自分が圧倒的に損だ、ということはないのです。
さらに言えば、みんながいやがってしたくないようなことは、一単位あたりの“得”の密度が高いみたいです。
トイレ掃除は、その最たるものです。
そういうことを実践している人が何かを始めようとすると、あっという間に支援がきます。
それは、その人が望みを実現させようとか、目標に到達しようとがんばっているわけではなくて、ただ毎日“徳”を積んでいるだけなのです。
まさに、人徳の“徳”とは、損得の“得”なのです。
『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』イースト・プレス
心の中で、どんなに善きことを考えていたとしても、それが実行に移されなかったら、それはないのと同じ。
「ありがとう」という感謝の言葉も、「笑顔」も、「気くばり」も、「優しい言葉」も、「席をゆずること」も、心で思っているだけなら、ただの絵に描いたモチにすぎない。
どんなに強烈に願おうと、深く想おうと、それは同じこと。
たとえば、喫茶店で注文するとき、どんなに強く心の中で「紅茶が飲みたい」と願ったとしても、「コーヒーください」とひとこと言ったらコーヒーが出てくる。
神さまも同じで、心の中がどうであれ、現象として現れた「言葉」なり「行動」を評価するという。
よき実践者をめざしたい。 |
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