2015.11.16 |
|
「めんどくさい」という言葉 |
|
|
やましたひでこ氏の心に響く言葉より…
生きていくことは暮らしていくこと。
その暮らしの大半は、メンテナンスだと思うのです。
片づけも掃除も洗濯も暮らしを整えていくためのメンテナンス。
もちろんご飯をつくって食べることも、私たちの命をつないでいくための大切なメンテナンス。
いいえ、メンテナンスという言葉だと、なんだかただのルーティンワークのようで雑務としか捉(とら)えられないかもしれない。
だとしたら、これらすべては命をケアするものと理解したらいい。
それでも、これら命のケアはあまりに日常すぎて、積んでは崩す、あまりに切りのないことなので、ついつい虚しい作業のように思えてしまうもの。
だから、そこで漏(も)れて出てくる言葉は「めんどくさい」。
「片づけるのはめんどくさい」「掃除機をかけるのはめんどくさい」。
疲れてしまって「お風呂に入るのもめんどくさい」。
ああ、こんな役にもたたない数学の「試験勉強はめんどくさい」。
今日の仕事予定の「会議だってめんどくさい」。
「めんどくさい」という言葉は、それこそ、大人も子どもも、性別も職業も問わず多くの人が口にする言葉です。
「めんどくさい」の「めんどう」を漢字にすると「面倒」となります。
「面倒」とは、「手間がかかったり、わずらわしいこと」「体裁(ていさい)が悪いこと。見苦しいこと」といったマイナスの意味あいで意識することが多いけれど、同時に「世話」という意味を持っています。
「子どもの面倒をみる」「後輩の面倒をみる」といったふうに。
そうですね、私たちは、人の面倒をみたり、逆に人から面倒をみてもらったりすることによって、つながりを築いているのだから。
「面倒をみる」ことは、私たちにとって大切な行為。
けれど、その反面、手間のかかることでもあり、厄介なことでもある。
そのため、「面倒」という言葉そのものが「わずらわしく、愉(たの)しくないこと」を表すようになったのかもしれない。
そして、さらに「面倒」という言葉の後ろに「くさい」がついてしまうと、「手間がかかる」「わずらわしい」といった負の側面だけが強調されてしまいます。
母親の「めんどくさい」を耳にした子が「自分は厄介な存在だ」と思い込んだように、「めんどくさい」という言葉は「あなたは味方ではない」というメッセージを発信する。
つまりそのひと言を口にするたび、知らぬ間に「敵」を増やしていると言い換えてもいい。
ましてや、それが無自覚な口癖となって頻繁に発せられているとしたら、知らないうちに周りは敵だらけになっていく…。
もしも、「めんどくさい」を繰り返しつながりを断っていけば、結果的に自分自身を孤立させ、人生の広がりを狭めてしまいます。
「めんどくさい」は、自分との関係も、他者との関係も断ち切る言葉。
「めんどくさい」は、命を育(はぐく)むのを放棄した言葉。
私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、死ぬまでは生きていかなくてはなりません。
「めんどくさい」といってさっさと死ぬことができるわけもありません。
生死は神様が決めること。
であるならば、「めんどくさい」という言葉を言い続けることがどんなに無益で、いえ、無益どころか、自分と周囲の人たちをどんなにか損(そこ)なう言葉であることを、意識しすぎてもしすぎることはないでしょう。
『「めんどくさい」をやめました。――さあ、言葉も片づけてみようか!』祥伝社
五日市剛さんは、嫌なことがあったときには、自分に対して、「ありがとう」とつぶやくといい、と言う。
人は、つぶやいた言葉に見合った行動を取るようになるからだ。
ということは、「めんどくさい」と言いたくなったら、代わりに「ありがとう」とつぶやけば、「これは、簡単!」とか、「楽勝!」と思えるかもしれない。
どんな面倒なことでも、脳が「簡単」、「楽勝」と思えば、「打つ手は無限」と、できる方法を探すようになり、前向きな行動をとる。
反対に、「難しい」、「大変だ」と思えば、面倒だという方向、つまり、できない理由を探し、行動しなくなる。
森信三先生は世俗的な雑事、雑務の処理の切り抜け方は、「スグサマ着手」、「即刻、処理」以外にない、と語っている。
芥川龍之介も同様に、「人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならない」という。
「めんどくさい」という言葉を言わない人でありたい。 |
|