2015.9.16 |
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アホは神の望み |
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筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
大いなるものの意思は、いまこの世に生きている私たちに何を求めているのでしょうか。
神のほんとうの望みとは何なのか?
一つは、「つつしみの心」だと思います。
他の生物には備わっているのに、人間だけがそれを失うか忘れるかしている節度や調和や「おかげさま」の心です。
そして、もう一つは「愚かさを守る」心ではないでしょうか。
愚かさを守る生き方とは、すなわち、小利口でこざかしい知識や知恵、速度や効率、駆け引きや計略、私利私欲や傲慢(ごうまん)さ、おごりや増長、攻撃性や支配性、鋭いが冷たい理知…そういうものには無縁か、距離を置きながら、目に見えないものを信じ、先を急がず、ゆったりとかまえ、学問や知識は多くなくても、自分の信じる道を正直に歩み、手間を惜しまず、回り道を厭(いと)わない。
時代遅れで融通もきかず、利にも疎いが、焦らず、いばらず、くさらず、わずかなことで満足を覚え、不平不満よりは感謝の言葉が多く、批判的であるより親和的で、悲観的より楽天的で、いつもニコニコ笑みを絶やさず、でくのぼうのようなぬくもりをにじませつつ、人を裁くよりは許して、「自分などたいした人間ではない」と自己への戒めを忘れず、命とは何か、生きるとは何かについて時間をかけてゆっくり考え、大きな回路をぐるりとめぐって大きな答えにたどり着く。
そんな鈍く、遅く、重い生き方をしながら、自分の中の「愚」をひそかにしっかりと守ること。
その深く大きな愚かを一生涯かけて貫くこと。
神が望んでいるのはそういう生き方ではないでしょうか。
スティーブ・ジョブズ流にいえば、「Stay foolish」、かしこく小さくまとまるよりも、大きな愚か者であれ。
器の大きなアホであれ。
天の理が求め、サムシング・グレートが喜ぶのは、人間のそういう心のあり方や生き方なのだと思います。
「陽気な心」もその一つでしょう。
明るく前向きで、いつも喜ぶことや笑うことを忘れない心です。
いい加減でいいとはいいませんが、パーフェクトばかり求めていても人間は行き詰まってしまうのです。
心も苦しくなるばかり。
だから、「ああダメかな」と思ったら、鏡の前で一人、ニッコリ笑ってすませてしまえばいいのです。
笑えば邪気や暗い心も少しは晴れ、やり直そうという気持ちもわいてきます。
人間、笑えるうちは大丈夫。
人生は勝ち負けではないが、泣くよりは、たくさん笑ったほうが勝ちなのです。
そういう笑い上手、喜び上手な人が神さまから好まれる人でもあり、笑いや明るい心を保つ「陽の力」が体の健康を回復、増強し、いい遺伝子のスイッチをONにする効能があるのです。
そのような喜びの心、おかげさまの心、つつしみの心。
そういうものが私たちの体を満たしたとき、私たちの命はいきいきと豊かに息づき、私たちの人生も幸福への歩みを始めるのではないでしょうか。
したがって、いっけん鈍重に見え、愚かとも思える生き方こそが、実は苦しいこの世を生きていくために神が人間に授けた知恵である…そのことをできるだけたくさんの人に知ってもらい、また、実践してもらうために、私は残されたこの世での時間を精いっぱい使いたいと考えています。
『アホは神の望み (サンマーク文庫 む 1-7)』サンマーク出版
行徳哲男師は、人間の魅力は「素・朴・愚・拙」の四つの言葉で表すことができる、という。
素とは、何も身につけない、飾らない魅力。
朴とは、情があり、泥臭い朴訥(ぼくとつ)とした魅力。
愚とは、目から鼻に抜けるような鋭(するど)さではなく、自分を飾らずバカになれる魅力。
拙とは、上手に生きるのではなく、不器用でヘタクソだが一途(いちず)な魅力。
自分の損得を先に考えず、人の利を先に考える生き方。
お先にどうぞと、自分を後回しにし、少し損をすることを厭(いと)わない生き方。
効率を求めるのではなく、ボーとして、鈍(にぶ)い生き方。
「潜行蜜用 如愚如魯(せんこうみつようは ぐのごとく ろのごとし)という禅の言葉がある。
目立たぬよう、際(きわ)立たぬよう、誰がしたかわからないように、ひそかに淡々と、日々自分のベストを尽くすこそが大事だ、ということ。
愚の如く、魯の如くとは、愚(おろ)かな人のように、魯鈍(ろどん・頭の動きの鈍い人)のようにということ。
「アホは神の望み」
陽気に明るく、大笑いしながら…
「素・朴・愚・拙」で生きていきたい。 |
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