2015.6.18 |
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きれいご免さあ |
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津本陽氏の心に響く言葉より…
薩摩兵児(さつまへこ)の士風は、「やっせんぼ」(役立たず)と言われるのを忌み、「ぼっけもん」(快男児)とあがめられるのを好む。
また、「ぼっけもん」とともに、薩摩武士があこがれたのが「きれいご免さあ」の性格であるという。
名誉も財産も、命にも執着がなく、いつでもそれを恬淡(てんたん)と捨てられる身ぎれいな男のことである。
西郷隆盛も桐野(きりの)利秋も「ぼっけもん」であると同時に「きれいご免さあ」に生きた男であった。
それが郷中に集まる青少年武士の死生観をかたちづくっている。
徳川幕府に朝鮮通信使がきて、たずねた。
「日本には目付役(警察官)のいない国があると聞いていますが、ほんとうでしょうか」
幕臣は即座に答えた。
「それは薩摩という国のことです」
薩摩人は罪を犯したとき、役人がくるまえに自らを処分するのを、習慣としていたのである。
イギリスは文久三年(1863)七月の薩英戦争ののち、薩摩と親交をかさねたが、維新後、日本が日清戦争、日露戦争で眠れる獅子と呼ばれた清国、世界最強といわれた陸軍と大艦隊を擁するロシアの二大強国に勝ったとき、大活躍をしたのが鹿児島出身の将軍たちであったのを見て、郷中教育を研究した。
明治四十三年(1910)、ジョージ五世の戴冠式(たいかんしき)に出席した乃木(のぎ)大将は、ボーイスカウトの訓練を見学し、その勇壮なさまに関心して、創始者のベーデン・パウエル卿(きょう)に聞いた。
パウエル卿は答えた。
「これは貴国の健児(けんじ)の社(郷中)の教育制度を研究し、その長所をとってつくりあげました」
幕末の鹿児島をおとずれたイギリス軍は、郷中教育の徹底した武士道養成の方針を、見逃していなかったのである。
『西郷南洲(なんしゅう)遺訓講話』という本がある。
講話をおこなったのは、旧福岡黒田藩士筒井亀策(かめさく)の子として生まれた頭山満(とうやまみつる)である。
頭山満講話。
「勝海舟は幕臣中の切れ者であったが、維新のまえに九州を遊歴したとき、まず熊本の横井小楠(しょうなん)をたずねた。
当時横井の名声は非常なもので、勝と対談すると雄弁滔々(とうとう)としてとどまるところを知らず、時勢、人物を論評してさかんにまくしたて、勝はおしまいまで一言も吐くことができなかった。
学問、識見、弁舌のいずれも聞きしにまさる大先生であると、勝はほとんど感服してしまった。
それから鹿児島へ下って、西郷南洲翁に会ってみると、横井とはまるで正反対で、自分から一口もきかずただ勝のいうのを、ハアハアと聞くばかり。
しかたないので、こんどは勝のほうが説法をする役回りになった。
さすがに勝じゃ。
これはとても段ちがいの人物だと覚(さと)って、説法をするのと、説法をされるのとでは千里の違いがある、とのちに人に語ったそうじゃ。
ここになると天品と人品との相違じゃ」
『武士道―いかに生き、いかに死ぬか』三笠書房
西郷隆盛は『西郷南州遺訓』の中で、幕臣、山岡鉄舟のことを評してこう語っている。
「徳川公は偉いお宝をお持ちだ。
山岡さんという人はどうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、何分にも腑(ふ)の抜けた人でござる。
命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困るひとですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。
本当に無我無私、大我大欲の人物とは山岡さんの如き人でしょう」
「きれいご免さあ」
とは、まさに、命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困る人のこと。
こだわりのない無我無私の人。
才気煥発(かんぱつ)の人は、自らを語ってしまう。
しかし、茫洋(ぼうよう)として腑の抜けた人は、ハアハアと言ってじっと黙って聞くことができる。
「きれいご免さあ」の人には、限りない魅力がある。 |
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