2015.6.5 |
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欲望に限りなし |
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M・J・ライアン氏の心に響く言葉より…
先日、自宅に向かって車を走らせていると、株式市場が値を上げ、ストックオプションを与えられている経営者たちの収入も上がったという話がラジオから流れてきた。
昨年のディズニーの社長の収入が一千万ドル、ロサンゼルスの別の社長のそれが四千五百万ドルだったという。
ビル・ゲイツはどれくらいもらったのだろう?
羨望が沸き起こると同時に、愛する素晴らしい家族や親しい友人たちがいて美しい家と健康に恵まれた自分の人生への感謝の念は車の窓から飛び去っていく。
私は思った。
「そのほんの一部でいいから手にできたら、幸せな人生が送れるだろうに」
言うまでもなく、幸せは外から見えるものではないし、生活水準を超えていれば、お金と幸せとはほとんど関係がない。
けれど、人は概してお金で幸せを買えると思いこんでいる。
その思いの普遍性に強い印象を受けたのは、数年前に、幸せになるにはいくら必要かという調査についての記事を読んだときだった。
収入の多寡にかかわらず、調査に参加した全員がもっと必要だと考えていた。
二万ドル稼いでいる人は三万ドルは必要だと言い、四万五千ドル稼いでいる人は六万五千ドルは必要だと言い、十万ドル稼いでいる人は二十万ドルだと言う。
収入が大きくなると、必要な額も飛躍的に大きくなる(「物欲の落とし穴」が補給を通じて拡大する一方であるのと同じだろう)。
そこで気づいた。
人間の性(さが)、少なくとも、現代の西洋人の性には、さらに多くを望み、多くを手にしている人をうらやむ何かが潜んでいて、その特性に対処するにはその特性を認めるしかないのだ。
ビル・ゲイツや、裕福な弁護士の夫から必要なものすべてを与えられ、働く必要のない主婦や、母親から広大な地所を引き継いだばかりの隣人をうらやみつつ暮らすこともできるし、あるいは、自分が何を本当に望んでいるかを理解しようと努めることもできる。
羨望をきっかけにして、サラ・ベルナールが言うような自分自身を捧げる対象を見つけることができれば、物質的豊かさに関係なく、真の豊かさを体験できるだろう。
ときには、妬みの虫が醜い頭をもたげることもあるだろうが、それをきっかけとして再び、世界全体のためにこの身を捧げることができる。
わが心はここにあり、やるべき務めを果たしている。
そういう満ちたりた気持ち、大いなる豊かさは、どんな財産にも劣らない。
『人生に奇跡を起こすたったひとつの教え』ディスカヴァー
どんな大富豪であろうと、王侯貴族であろうと、ひとたび病魔にむしばまれ、起き上がることさえ敵(かな)わなくなったら、莫大な金銀財宝や大邸宅も、まったく無意味で無価値なものと感じるだろう。
そして、お金はなくても健康で愉快に暮らしている人たちをうらやむことになる。
多くの人は、今ある幸せに気づかない。
そして、もっともっとと、さらに欲しがる。
「欲望に限りなし」
今ある幸せに気づき、感謝できる人でありたい。 |
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