2015.4.29 |
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ここを離れないという覚悟 |
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致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
中国の古い昔、法遠(ほうおん)という坊さんが師匠に弟子入りを願い出た。
禅門は簡単に入門を許さない。
玄関で待っていると師匠が現れ、いきなり桶(おけ)の水をバサッとかけた。
他の志願者は皆腹を立てて帰っていったが、法遠だけは残り続け、入門を許された。
弟子になって間もないある日、師匠が外出した。
法遠は蔵に入り、普段は食べられないご馳走をつくって皆に振る舞った。
ところが、思いがけず予定より早く師匠が戻ってきた。
師匠は激怒し、法遠を寺から追い出したばかりか、ご馳走した分を町で托鉢(たくはつ)してお金で返せ、と要求した。
法遠は風雨の日も厭(いと)わず托鉢を続け、ようやくお金を返した。
すると師匠は「おまえが托鉢している間野宿をしていたのは寺の土地だから家賃を払え」と迫った。
法遠はその言葉に従い、また黙々と托鉢を続けた。
その様子をじっと見ていた師匠は弟子を集め、自分の後継者が決まった、と宣言し、法遠を皆に紹介した。
弊社主催の徳望塾で円覚寺の横田南嶺(なんれい)管長が述べられた話である。
これに続いて、横田管長はご自分のことを話された。
横田管長は四十五歳で円覚寺の管長に選ばれたが、なぜ自分が選ばれたのか分からない。
ただ一つ、これかなと思うものがある。
それは「ここを離れない」という一事。
どんなことがあってもここから離れない。
ここを見限らない。
ここに踏みとどまる。
自分が貫き得たのはこの一つ。
それを師匠は見てくれていたのではないか、と横田管長は話されていた。
ここを離れない…長の一念はここに始まりここに尽きるのではないだろうか。
国であれ会社であれ家庭であれ、あらゆる組織はそこにいる長がどういう一念を持っているかで決まる。
それがすべてといっていい。
『致知』三十五年、様々な分野の長にお会いしてきたが、すぐれた長には共通して二つの条件があることを強く感じる。
一つは「修身」、二つは「場を高める」。
この二点に意を注がない長は長たる資格がない、と断言できる。
気まま、わがまま、ムラッ気を取り去る。
修身とはこのことである。
さらには、公平無私、自己犠牲、先義後利(目先の利益を追わない。義務が先、娯楽は後)を率先垂範(そっせんすいはん)することである。
長が私意をほしいままにして、組織が健全に成長するわけがない。
次に場を高めること。
長たる者は自分のいる場に理想を掲(かか)げ、そこに集うすべての人をその理想に向け、モチベートしていく人でなければならない。
「適切な目標を示さず、社員に希望を与えない経営者は失格である」とは松下幸之助の言葉だが、まさに至言である。
最後に、最近逝去された経営コンサルタントの船井幸雄さんの晩年の言葉を付記する。
「四十余年経営コンサルタントをやってきて分かったことがある。
どうしたら経営がうまくいくか。
それはそこにいる人が命を懸けている。
それが第一条件。
いるところに命を懸ける。
これが大事」
長として欠かせない姿勢であり、一念である。
『長の十訓』致知出版社
「一所懸命」という言葉がある。
一所懸命とは、一つところに命を懸(か)けるということで、武士が先祖伝来の所領を守ることに由来する。
「一生懸命」とは違う。
長く続く会社、老舗(しにせ)には、すべてこの考え方がある。
200年、300年と会社を存続させようと思ったら、一時(いっとき)の利や、自分の趣味嗜好で方向性や商売替えをすることなど許されないからだ。
自分にはこの舗(みせ)しかない、と思い定め、この場、この商売に命を懸ける。
「ここを離れない」という覚悟。
そこから、自分を高め、老舗としてのブランドを高めるたゆみない努力が生まれる。
どんなときも、一所懸命でありたい。 |
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