2015.3.12 |
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意気に生きる |
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池田葉子氏の心に響く言葉より…
江戸しぐさの「いき」は、京の「粋(すい)」と違って、「生きる」の「生き」。
集団になると、意気投合の「意気」だといいます。
たとえば、会合があるのに、雨や雪で人が集まらないのがわかると、今の人は「私も行くのをよすわ」と言い出したりしますが、江戸っ子はこう言いました。
「そいつあ、いけない。私が行って、なんとかしよう」
なんて言って、早や、飛び出していくのです。
意気に生きるとは、意識して元気に生きるということです。
「気」は元気の気。
元気でないと、何をしても力が入りません。
江戸っ子は「気が滅入ると、体にさわる」と言って、一に眠り、二に眠り、三四がなくて、五に目刺しに赤ナス(トマト)、を心がけていたそうです。
睡眠をたっぷりとって、しっかり栄養を摂る。
これが意気に暮らすもと。
苦しいときも、楽しいときも、いつも変わらず元気がいいのが江戸っ子の意気です。
江戸っ子は、何事も前向きに事を運んでいきます。
「だめでもともと」と屈託がないのです。
『思いやりの心 江戸しぐさ』(越川禮子監修)マガジンハウス
九鬼周造氏の『「いき」の構造』の中では、「いき」は次の三つの分類されている。
「媚態(びたい)」「意気地(いきじ)」「諦(あきら)め」
媚態とは、「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などだ。
意気地とは、野暮の対極にあるもので、「いなせ」「いさみ」「伝法(でんぽう)」「男伊達」「意地(いじ)」などを言い、「意気地(いくじ)なし」と使われたりする。
諦めとは、「執着を離れる」という仏教的な意味もあるが、「あっさり」「すっきり」「洒脱(しゃだつ)」と言うように、俗気がなくてさっぱりしてあか抜けていることをいう。
「人生意気に感ず」ということわざがある。
人は、お金や名誉のために行動するのではなく、相手の心意気に感じて動くのだ、ということ。
人生を意気に生きたい。 |
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